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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(64)
「さねおみって、サワとつきあう前も、ずっと男とつきあってたの?」
姪の声で我に返った。
「いいや」
「じゃあ、『今月、生理こないんだけど!』って言われて、慌てたりしてたんだ? ばっくれた?」
茶化すような言葉に、正直に答える。
「ばっくれはしなかったが、覚悟はした」
腰を守るように巻きつけ、ウエストで袖を結んでいるジャージの上着を見て、姪に告げた。
「俺も佐和も男で、女の体調や身だしなみはわからない。察するにも限度がある。何かあれば自分から言え。俺も佐和も、生理だと言われるくらいは慣れている」
姪は何も言わず、唇にフェアリーワンドのリップクリームを塗りつけて、魔法のステッキのようなキャップを締め、上下の唇を擦り合わせて、それから何でもなさを精一杯装ったくせに、震える声で言った。
「生理が、来ない」
俺は奥歯でガリガリ君の棒を噛んで動揺を押さえ込み、心がけてのんびりした声を出した。
「なるほど。それは動揺する」
突然、学校をサボって俺たちのところへやって来た、本当の理由がわかった。こんなときに頼りにされるなんて、俺たちはなかなかいいオジサンじゃないか。
姪はせっかく手入れした美しい頬を涙で濡らしはじめ、俺は肩を抱き寄せた。姪が泣いたら、まず抱き上げる。その習慣は自分の身体に染みついていた。
「多笑、大丈夫だ。打ち明けてくれてありがとう。ひとりで不安だったな。心配しなくていい。一緒に考えていこう」
「さねおみー! うわーん!」
ようやく声を上げて泣き始めた姪を抱き締めていたら、玄関のドアが開き、佐和が帰ってきた。
「おかえり、佐和。お疲れ様」
「ただいま。どうしたの、多笑ちゃん? 失恋?」
俺はしがみついている姪の髪に頬をくっつけて訊く。
「佐和はきっと俺たちに味方して、いい知恵を貸してくれる。佐和にも話していいか?」
頷くのを確認してから、佐和に告げた。
「生理が来ないらしい」
佐和は、俺の目には険しい表情を見せたが、すぐに姪の背中に手をあてて、柔らかな声を出した。
「そっかぁ。それは、いろんな可能性を考えて、怖くなっちゃったね。その原因が病気なのか、妊娠なのか、詳しいことは病院に行かないと調べられないけど、その前にまず妊娠検査薬を使ってみるのは、ひとつの方法だと思うよ。もう使ってみた?」
「ううん。学校とか、ウチにバレるかも……って」
姪はしゃくりあげていて、俺は佐和に通訳する。
「田舎だから、身バレを考えたら買いにくいよなぁ」
「なるほど、いろいろ難しいんだね。でも僕は、妊娠検査薬を買ったり、使ったりすることは、恥ずかしいことでも、悪いことでもないと思ってるよ。もしよければ、僕が買ってくるから、一度使ってみない? すぐ近くにドラッグストアがあるから、行ってくる。ちょっと待ってて」
「いいよ、佐和。俺が行ってくる」
謝罪という重い仕事を終えて帰宅した佐和を、休む間もなく買い物に行かせるのは気が引ける。しかし佐和は爽やかに笑った。
「周防は多笑ちゃんと一緒にいてあげて。僕、妊娠検査薬を買うのは慣れてるから平気。気にしないで」
明るい声と笑顔を残して出かけて行き、俺はドアが閉まる音を聞きながらボヤく。
「妊娠検査薬を買うのは慣れてるなんて言われたら、それはそれで気になるけどなぁ」
姪は俺の腕の中で泣きながら笑った。
「サワは今、悪意ゼロ、完っ全な善意で、さねおみと私に気を使わせないためにそう言ってたね」
「ああ。佐和は仕事を離れると、ちょっと天真爛漫だ。そういうところも愛しいんだけどな」
かつて、チーム給湯室を相手に、恋人の生理や婦人科通院について、真面目に話していたことを思い出す。恋人に不調があったのなら、妊娠検査薬と向き合う頻度も高かったのかも知れない。
俺が女を食い物にし、遊び道具にしているあいだに、佐和はどれだけ真剣に女と向き合ってきたのだろう。積み重ねの結果は、きっと如実にあらわれる。どこかで差が開くときが来るのかも知れない。また少し、コールタールが隆起した。
ドラッグストアから帰ってきた佐和は、キャラメルの箱を渡すような明るさで、妊娠検査薬を姪に手渡した。
「使い方は、ここに書いてあるとおり。初めて使うなら、パッケージを開けて、実物を見るのも緊張するかな? よければ、ここで開けてから持っていくのでもいいよ」
姪は頷き、紙箱へ親指を押し込んで開き、アルミ製のパックを引き裂いた。姪の緊張が空気を硬くする。
俺は空気を和らげたくて、カウンターテーブルに頬杖をつき、姪の手許を見守りつつ口を開く。
「俺、いつも思うんだけど。なんで1箱に2回分入ってるんだろうな」
佐和も姪の手許から目を離さないまま、口許に笑みを作って頷いた。
「1回分の商品もあるけど、念の為に2個買っちゃうなら、最初から2回分でいいよね。輸送や保管で試薬が変性してたり、上手く使えないときもあるかも知れないし、もう1回確かめたいときもあるかも?」
「なるほど。これって、男が使っても反応する?」
「するよ」
「試したことがあるのか」
「うん。結果が出るまで、実はそんなに時間はかからないんだけど、結構ドキドキする。個室でひとりきりで結果を見るのは、健康診断の結果を見るのとは違う種類の緊張と不安を感じたよ」
佐和は姪に寄り添って、一緒に検査キットと説明書を見比べてやり、理解した姪はしっかり頷いた。
「い、いってくる」
バスルームへ行こうとする姪に、佐和が声をかけた。
「多笑ちゃん。失礼だけど、もし心当たりがあって妊娠の可能性を調べるのなら、相手の男性がいるってことだよね。連絡して、そこで結果が出るまで一緒に待ってろって言わなくていいの?」
姪は振り返り、小さく首を横に振った。
「ううん、連絡しても、意味ないし」
「そうかな? 多笑ちゃんとパートナーにとって、妊娠が嬉しいことなのか、困惑することなのかは、僕にはわからない。でも、人生を左右するかもしれない緊張を、多笑ちゃんがひとりきりで背負うなんて、アンフェアじゃない? ちゃんとつきあわせなよ」
姪は黙って目を伏せた。佐和はさらに話しかける。
「ふたりのことなんだから、きちんと巻き込んでおかないと、のちのちふたりの関係に溝が生じないかなって思うんだ。相手の人は、今、多笑ちゃんがどんな気持ちでいるかを知らない訳でしょう? そして結果が陰性で何事もなければ、知らないまま過ぎてしまうよね? 僕ならちゃんと言ってくれよ、何も知らずにひとりでのほほんとしててバカみたいじゃんって思うし、周防なら水くさい、俺にもその負担を半分寄越せって言うと思う」
「おっしゃるとおり」
俺は素直に頷いたが、姪は首を横に振った。
「『万が一、妊娠したって言われても、責任はとれない』って言われてる。私がそれでもいいって言ったの」
「はぁ? 何だ、その男?」
スツールから腰を浮かせ、大きく息を吸い込む俺に、佐和が素早く手のひらを向けた。
「周防、ストップ! ごめん、多笑ちゃん。僕が想像していたより、多笑ちゃんの恋愛はややこしそうだ。先に結果を確認して、それから落ち着いて、おしゃべりしよう。さねおみも、僕も、絶対に大きな声を出したり、怒ったり、多笑ちゃんが怖いと思うようなことはしない。多笑ちゃんの考えと選択を尊重して寄り添う。大丈夫だから、安心して調べてきて……ね?」
佐和の笑顔に頷いて、姪はバスルームへ行った。
「僕も怒らないから、周防も怒らないでっ! これは多笑ちゃんの恋愛だっ!」
佐和はスツールに勢いよく座った。
「実は相当お怒りだったんだな」
俺は冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、キャップをねじ切ってから、佐和の前に置いてやる。
「当ったり前だろ。いくら僕や周防でも、女性に対して、そこまでバカなセリフは言ったことがない。ネクタイをプレゼントしてもらうような年齢の分別ある男なら、何を言われたって、その手前で踏みとどまれよ! それに、セックス=インサートじゃない。インサートせずに愛を確かめ合う方法だって、いくらだってあるじゃないか! ちょっと考えたり調べたりすれば、すぐにわかることなのに! 僕、こういう浅慮なバカは大っ嫌い! 浅慮か、バカか、どっちかひとつだけにしてほしい!」
候補者演説のように激しい手振りをつけてまくしたて、ミネラルウォーターをがぶがぶ飲んで、手の甲を顎にあて、唇が歪む強さで水滴を拭う。
「まぁ、たとえ一晩限りでも、ヤるからには一応の覚悟はするよな。少なくとも、俺はそれが常識だと思っていた」
「自分の常識は他人の非常識って言うけどね。僕たちだって完璧じゃないし。今までいろんな人に出会って、大概のことについては、その人にもいろんな事情があるんだろうと思ってケリをつけてきたけど、さすがにこの非常識はいただけない」
「多笑が俺たちの常識を理解して、納得するかどうかだな。俺に似て、好きだと思ったらまっしぐらだ。俺と多笑には、駆け落ちの血が流れてる」
佐和は再びミネラルウォーターを口に含んで頷いた。
「相手にも駆け落ちする覚悟があるなら上等だ。でも、僕たちは今、相手の男に対して、そんな覚悟はなさそうだって思ってるよね?」
激しい目のまま俺を見たが、バスルームのドアが開く音と同時に、佐和は目を閉じて静かに深呼吸をした。
姪は陰性の結果を持って出てきた。
佐和は優しい笑みを向けて、姪に問う。
「この結果に、多笑ちゃんは、ホッとした? 残念だった?」
「ホッとした……」
「そっか。じゃあ、陰性でよかったねって言っていい? ハグしよう」
笑顔で姪を抱き締め、俺を見る。
「さねおみも、ギュッてしたいって」
俺は笑顔で頷き、両手を広げ、胸に飛び込んできた姪を抱き締めた。
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