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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(65)

 風呂上がりの佐和は、頭からタオルをかぶったまま、ソファに座る姪の隣へ行って膝を抱え、パピコを咥える。唇の上で溶けた甘い液体を舌先で舐めて、パピコの砂時計のような形を見た。 「好きな人には、なかなか勝てないよね。たくさん好きになっちゃったほうが弱くて、負け」  佐和のさざ波のような声に、姪は黙って頷いた。  手に握った砂時計のようなパピコを握り、時間を口の中へ戻して佐和は話す。 「僕、自分の人生において、これ以上は絶対にないって確信したくらい、めっちゃくっちゃ好きになった人に、セフレにならないかって言われたことがあるよ」 「ええーっ? 何、その展開?」  俺が佐和にセフレ関係を提案してから、まだ1年も経っていないのに、とても遠い昔のことのように感じる。  しかし、あの日の自分の必死さも、セフレになろうと切り出すときの迷いと緊張も、肌を重ねたときの喜びと優しくしたい気持ちも、そのままの鮮度で思い出せる。  俺は、佐和と姪がもっと自由に話せるようにソファを離れ、キッチンのカウンターテーブルへ移動して距離を置き、ピノを食べながら大人しくした。 「それでサワは、好きな人のセフレになっちゃったの?」  姪の不安そうな声に、佐和は膝を抱えたまま頷いた。 「うん。だって大好きだし。何もできないよりは、せめてエッチだけでも、できたほうがいいかなって思ったから」 「えー、そんなの切ないじゃーん……。ダメだよ、自分のことは大切にしなきゃ。いくら好きでも、線引きはしなきゃ! そんな人の言いなりになっちゃ、ダメだよおおおおお。サワが可哀想だよ!」  姪は泣きそうな声を出し、佐和を抱き締める。  佐和も両手を広げて姪を抱き締め、細く大きな手で姪の後頭部をぽんぽんと撫でた。 「多笑ちゃんは、ちゃんとわかってるじゃん」 「え?」  身体を離して顔を見る姪の手をとり、佐和は優しく笑いかけた。 「そんなのはダメなんだよ。僕とさねおみの大事な、大事な、大事な、自慢の姪っ子を、もっともっともっっっっと大切にして。自分から傷つきにいくようなことは、なるべくしないで欲しいな。ね?」  首を傾ける佐和に、姪は再び抱きつく。 「うわーん、サワーっ!」  素直に泣く姪の髪を撫で、涙をふわふわな袖でそっと拭いてやる。 「あのね。正直に打ち明けると、その前に僕はもっと絶望していたんだ。どうせさねおみとは両思いになれないんだからって……男なら誰でもいいやって、かなり荒んだことをしていた」  佐和は苦笑して、また膝を抱えてパピコを口の中へ絞り、赤い舌で唇を舐めた。 「不特定多数の人とそんなことをするくらいなら、俺とセフレにならないかって、さねおみは僕を心配して、そう言ってくれたんだよ。女性としかセックスしたことないくせに、そこまで思い切ったことを言ってくれるなんて、さねおみの愛って深いよね」  心配もしたが、むしろチャンスだと思っていた。俺も佐和とセックスをしたかった。深い愛などという美しいものではなく、何とか佐和と関係を持ちたい自分の一方的な欲求、執着だった気がする。  手元のピノまでがコールタールに思えてきて、ひとつ食べただけで冷凍庫にしまった。  カウンターテーブルに戻る途中、佐和と目が合って、佐和の涙袋がふっくらした。俺の心臓が小さく跳ねるのと同時に、姪が小さく悲鳴をあげた。 「どうしよう。今どこ? だって。どうしよう、サワ?」  佐和は落ち着いて姪の背中に手をあてる。 「正直に、叔父さんの部屋に遊びに来てるって答えていいんじゃないかな」  さらに画面が上へ動いて新しいメッセージが表示され、姪は黙り込む。佐和が勝手に画面をのぞきこんだ。 「ああ、こういうお願いを平気でしてくるんだね」  突然の剣呑な声に、俺は相手の男が殺されるヤバさを感じた。慌てて駆け寄り、姪のスマホをのぞきこむ。 「ふうん。『おっぱいの写真、ちょうだい』か。俺も今度、佐和におねだりしてみようかなぁ」  なるべくバカっぽい呑気な声を出し、佐和から無言で波動拳が放たれて、俺は大げさにソファに倒れた。  しかし、俺がどうしてそんなふざけた行動をとったのかは、佐和に伝わった。佐和は軽く咳払いをして、強引に左右の口角を上げ、声をやわらげる。 「多笑ちゃんは、いつもどうやって対応してる? 送ってあげてる? 僕はさねおみにおねだりされたら、送ってあげちゃうけどね」 「マジか! 送ってくれ! 全裸で!」  ふたたび波動拳が繰り出され、俺はソファを転げ落ち、キッチンまで吹き飛ばされて、コーヒーを淹れた。  佐和は姪の気持ちに寄り添う。 「大好きな人と、ちょっとエッチな遊びをするのも楽しいよね。ふたりが合意していて、写真の管理がきちんとできているならば、写真を送りあって楽しむのもアリだと思うんだ」  俺は佐和の話に頷きながら、佐和が好きな浅煎りのコーヒーを落とし、姪のカップには砂糖とミルクを入れた。コーヒーメーカーは、一度にマグカップ2杯分しか落とせないから、俺の分は深煎りの豆に変えて落とす。  甘く焦げたコーヒーの香りを胸に満たしていたら、佐和が声を上げた。 「あれ? 僕、この人を知ってるよ。ね、周防も知ってるよね?」  熱々のコーヒーを啜りつつ歩いていき、画面を見て、俺は頷いた。姪が『先に写真を送って』と返信し、『休憩中』と送られてきた写真だった。  彼はありきたりなワイシャツとネクタイ姿で、社内のカフェスペースで自撮りをしたらしい。木組みの内装とフェイクグリーンのインテリアは、俺も佐和も見慣れている。 「ウチの広報だ」 「何をやっているんだろうねぇ、おバカさん。彼は結婚して、奥さんは妊娠中だもん。多笑ちゃんが妊娠したって、責任とりたくないよね」  口の堅い佐和が、彼の個人情報を姪に聞かせた。 「結婚してるっ? 妊娠っ?」  姪は髪を勢いよく振って、佐和を見た。 「ごめん、怒りのあまり、うっかり口を滑らせちゃった。社員の個人情報だから、聞かなかったことにして」  佐和は言葉を取り戻すようにコーヒーを飲んで、肩をすくめる。 「妻の妊娠中に女子高生を騙して不倫か。クズの典型だな。身勝手極まりない」  唸る俺の隣で、姪はうつむく。 「私も悪かったかも。全然気づかなかった。予備校の先生をしてるって言われて、夜や土日にあんまり会えないのも、仕事だからって納得してたの。勉強も教えてくれたから、全部信じちゃった……全然、疑わなかった」  姪の瞳が涙で揺れ始めた。俺は急いでマグカップをから手を離して、姪を抱き締める。姪が泣いたら、抱き上げなくては。 「ばーか。お前は何も悪くない」  佐和も力強く頷いた。 「うん、多笑ちゃんはまったく悪くない、男が悪い。そんな言い訳を思いつく巧妙さがあるなら、もうちょっと仕事に注力してくれていいのにねー。ダラダラ仕事しないでほしい。経費がかさむじゃん」  佐和はコーヒーを飲み干し、立ちあがった。 「僕たちは社員のプライベートには基本的には関知しない。仕事さえきちんとしてくれれば、それでいい。でも、多笑ちゃんにはきちんと謝らせる」  ビビって見上げる俺と姪を見て、佐和は目を細めた。 「大丈夫。僕は事を荒立てるのは嫌いだから。ただ、多笑ちゃんの写真を送るだけだよ」

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