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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(66)
「さて、不自然じゃない程度に身なりを整えて、写真を撮ろう」
佐和のまだ濡れている髪を手櫛で撫でつけオールバックに調え、いつもの個性の強いアンダーリムの眼鏡をかけた。
ふわふわのパイル地のセットアップには不似合いだが、会社で見慣れた顔になる。
なるほど。佐和が送ろうとしているのは、たった1枚の写真だけだ。
意図が読めた俺は、姪のスマホでカメラアプリを起動させて肘を伸ばした。姪の頬を、佐和の頬と俺の頬で左右から挟む。
「ねぇ、多笑ちゃん。プリクラって撮る? どんなポーズをするの? オジサンにもできる、簡単なのを教えて」
「簡単なの? 指ハートかな」
姪を真似て、佐和と俺も親指と人差し指の腹を擦り合わせる仕草で小さなハートマークをつくる。
指ハートが似合わないオジサンふたりの姿がスマホの画面に鏡写しになり、真ん中で姪はこらえきれずに笑い出した。
姪のおすまし顔が笑顔になってはじけた瞬間にシャッターボタンを押した。お前は、俺たちの姪をこんな笑顔にできるのか! 彼氏を名乗るからには、別れるまでに一度くらい、これ以上の笑顔にさせてみろ! そう言ってやりたい気持ちが奥底にあった。
佐和は画面の中の俺を見て苦笑する。
「多少、周防の目つきが鋭いけど、たぶん僕にしかわからないレベルだから、許容範囲かな」
メガネをはずし、オールバックの髪を崩して、寂しげに微笑んだ。
「さて、多笑ちゃん。もしよければ、この写真を彼に送って。この写真1枚で、彼は自分が重ねてきた嘘や、自分の立場や今後の人生を考えて、別れるって言ってくると思うんだ……っていうか、これ以上の嘘は重ねずに、せめて潔く別れるって言える人であってほしいと僕は思ってる……恋路を邪魔しちゃってごめんね」
「ううん。結婚してるなんて、聞いてなかったもん。あー、急に目が覚めた! なんでこんな人に尽くしてたんだろう!」
姪はぐずぐずと鼻を鳴らしながら、佐和の指示でトーク履歴をすべて保存し、撮ったばかりの写真を送信した。
『叔父のさねおみとサワと一緒にいるよ』
あまり間を置かずに返信があった。
『SSスラストの周防CEOと佐和COOに見えるんだけど。どうしてそんな人たちと一緒にいるの?』
「俺たちは、そんな人たち呼ばわりか」
「まぁまぁ。珍しい反応でもないだろ」
俺と佐和が画面をのぞき込み、姪もしばらく画面を見つめてから、左右の親指を使って文字を入力した。
『SSスラストを知ってるの? さねおみはママの弟。サワは正確には叔父さんじゃないけど、私が小さい頃からずっと遊んでもらってて、叔父さんみたいな人』
思い出して、俺はスマホのフォルダを遡る。
スイミングスクールのバスから飛びついたまま、佐和に抱っこされている幼い姪と、どさくさにまぎれて佐和の肩を抱いている俺と、姪をしっかり抱いている佐和のスリーショット写真を、姪に送ってやった。
佐和が祖母から駆け落ち話を聞いて大号泣した日で、拡大してよく見ると、目尻がまだ少しだけ赤い。
姪の笑顔が輝いていて、佐和の笑顔が優しくて、俺も屈託なく笑っていて、こんなとっておきの写真を公開するのはもったいないが、3人の仲のよさを裏づける写真だった。
「懐かしい! 夜中に目が覚めたら、サワもさねおみもいなくて、めちゃくちゃ泣いたの。パパが『困ったなぁ』って言いながら、ずっと抱っこしてあやしてくれたの、今でも覚えてる」
姪はその写真も送信した。
予備校講師で独身だと信じていた姪と、SSスラストの社員で既婚者であると知っている俺たちに挟まれて、彼は今、何を考えているだろうか。
既読はついたが、それ以上の反応はなかった。
「つまらないヤツ。もうちょっと騒げよなぁ」
「周防、徹底的に追い込んじゃダメだよ。これは多笑ちゃんと彼のことなんだから、どうやってケリをつけるのかは、ふたりが話し合って決めなきゃ」
「話し合い、なぁ」
俺は深煎りのコーヒーを啜り、姪に提案した。
「多笑。夜の別れ話は感情的になりやすい。ふたりきりで話すのも激高しやすくなる。明日の朝、オフィシャルな場所で話をしたほうがいいと思う。俺たちは聞き耳を立てたりはしないが、何かあれば駆けつけられる場所にいるから、安心して別れ話ができるぞ」
こういう話し方が先回りで、自分の思い通りに動かそうとしているということなのか。
微かにコールタールが波打ったが、俺は会社の近くにある早朝営業のアメリカンダイナーの情報を送った。
姪は小さく深呼吸して文字を入力し、俺と佐和の顔を交互に見てから送信ボタンを押す。
『さねおみとサワに、この人が彼氏だよって写真を見せて自慢したら、この人のこと知ってる、ウチの社員だって言ったんだけど。どーゆう事? 予備校の先生じゃないの? 話したいから、明日の朝7時に、このお店に来て。絶対に来て』
『俺のことを、周防CEOと佐和COOは、何か言ってた?』
真っ先に自分の保身を考えるのか。俺と佐和はたぶん同じように落胆しつつ、同時に首を横に振った。姪はまた文字を入力する。
『何も言ってない。ただ、ウチの社員だって言っただけ』
それきり、トークルームは静かになった。
『ずっと、嘘ついてたの? 何で? だいすきって』
姪は入力しかけた文字列を消し、また佐和に抱きついて泣き、俺は佐和ごとまとめて姪を抱き締めた。
姪はどんな気持ちで泣いているのだろう。騙されて悔しいのか、裏切られて悲しいのか、ただただ嘘つきな彼を恋 ているのか。
恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。
その一文を思いながら、姪の涙が枯れるまで、佐和と一緒に震える肩を抱いた。
泣き腫らした姪は顔を洗いに行き、俺は何か少しでも気晴らしになるような楽しいことを求めて、部屋の中を見回した。
「よし、釣りをして、料理対決をしよう!」
俺は家の中にある食品をひとつずつ封筒に入れて、目玉クリップやダブルクリップで留める。
佐和がすぐに理解して、割り箸にたこ糸を結び、先端にクリップの釣り針をつけて、釣り竿を作った。
「何してるの?」
姪はまだ赤い鼻をタオルで覆って、カフェテーブルに広がる封筒を見る。
「さねおみが、また面白いことを思いついたんだよ。釣りをして、その食材で料理対決!」
「ひとり4つ釣り上げよう」
足許が不安定になるように、ソファの上に立つ。ベッドまで我慢できなくて、互いを求めて重なりあっても、高みを臨んで本能のままに腰を揺らしても、びくともしないソファだから、多少はしゃいで飛び跳ねても平気だ。
しまった、俺が封筒を釣り上げたら、ガラスの天板に透けて、ユニオンジャックのブリキ缶が見えた。丸窓の中にショートブレッドのイラストが描かれているが、中身はいちごフレーバーのジェルや、キャンディカラーのゴムが入っている。
さりげなく寝室へ移動させるか、注意を向けさせないよう自分も見ないようにするか、と迷ったときには、姪はもう俺の一瞬の視線をたどってその箱に手をかける。
「あ、この箱可愛い!」
「マジで目ざといよな、お前。ウチの会社に来るか?」
「不倫男と同じ会社なんて嫌。古都ちゃんの会社に行く」
「それはそれでまた面倒な……」
俺と佐和が苦笑しているあいだに、姪はさっさと箱を開けて、中身を見てしまう。
「うわっ! なんでこんなところに置いてるの」
「使うからに決まってるだろ。多笑はちゃんと使ってるか? 使い方や使うタイミングはわかってるか?」
キャンディカラーのひとつを指先でつまみ上げて見せた。
「使ってるよ。前にさねおみが教えてくれたことは、ちゃんと守ってる。それでも妊娠とか怖いけど」
姪は頷き、クッションを抱えた。
「さねおみとサワも、本当にそういうことしてるんだね」
「あんまり具体的な想像はしないでくれ、俺と佐和の究極のプライベートだ」
「どっちが男役、女役って決まってるの?」
俺は首を横に振った。
「俺と佐和だけがわかっていればいいことだから、口外するつもりはない。男と女のセックスだって、身体の形状に従って、最終的な形が決まってしまうだけで、そこへ至る過程に男も女もないだろう? どちらからだって誘うし、上にも下にもなって転げ回る……ただ、背負うリスクは圧倒的に女のほうがデカいからな。自分を大事にしろよ。愛してるぞ」
ぽんぽんと頭を撫でたら、姪は唇を歪め、わざと大きな声を出して、クッションを投げつけてきた。
「ずるーい! 何か真面目に言えば誤魔化せると思ったでしょ!」
「バレたか!」
「さねおみが女役!」
「根拠は何だ?」
「サワのほうがカッコイイもん!」
「佐和がカッコイイのは、俺も同意だ! お前もそういう男を釣りあげろよ!」
「うるさーい! 言われなくてもそうするわ!」
「佐和を基準にしたら、ハードルが高いぞ?」
「じゃあ、さねおみレベルでいい!」
「何で妥協して俺になるんだよ! 俺だって、そこそこハードル高いぞ?」
「顔面だけでしょ!」
「これで顔が悪かったら、何も残らないだろうが!」
言葉とクッションを投げあって遊び、佐和にたしなめられた。
「修学旅行ごっこは、そろそろおしまい。さねおみは僕と違って女性に優しいから、基準にするのは大賛成。探すのは大変だと思うけど、見つけたら、きっと上手くいくよ」
「サワだって、女性に優しいじゃん」
「んー。僕は、女性に対するリスペクトはあるつもりだけど、好き嫌いで言うなら、女嫌いだよ。さねおみの前に立つときだけ髪の毛を直して、声をワントーン上げる女性を見ると、イラッとするよね」
「サワがヤキモチ妬いてる!」
「佐和がヤキモチ妬いてる!」
姪と俺は、頬に手をあてて肩を寄せあい、佐和は頬を赤くして笑った。
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