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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(68)

 翌朝、姪はストレートアイロンで丁寧に髪をのばし、丹念に薄化粧を施した。その技術はなかなかのもので、ほんのひと刷毛で緊張する頬に赤みが差す。  濃紺のツーピーススーツを着込んだ俺は、洗面台のふちに腰かけ、姪の顔が仕上がっていく様子を眺めていた。 「メイクで顔色をコントロールできるのはいいな。俺はせいぜい手のひらで顔を叩いたり、額や頬を擦ったりするくらいだ」 「さねおみ、そんなことするの?」 「俺は目立ちたがり屋のクセに、緊張しやすいからな」 「私も。遺伝かな?」 「おおばあちゃんがそういうタイプらしい」 「へえ。おおじいちゃまより、チャキチャキしてるのにね」  ビューラーでまつ毛にカールをつけながら、姪は笑った。その笑顔は光の粉を振り撒いたように輝いていて、その美しさに、我が姪ながら見とれてしまう。  こんな笑顔を見ることができるなら、美容関係の仕事も楽しいかもしれない。  メイクポーチの中を探り、『果肉―与えるかどうかは私が決める―』というタイトルの口紅を選んだ。オレンジがかった赤は、姪に溌剌とした印象を与えた。 「多笑ちゃん、今日は一段と素敵だよ!」  佐和のひと言で、姪のテンションはぶち上がる。  頬の筋肉が盛り上がり、目は弓形に細くなって、左右の口角が強く引き上げられた。  メイクを変えた訳でもないのに、肌にツヤが増して、輝いて見える。化粧品メーカーよりも佐和の力は偉大だ。  玄関で、姪はコンバースの靴紐をキュッと結んで立ち上がった。 「よっしゃ、行くぞー!」 「俺たちは向こうのカウンター席で仕事をしてるから、何かあればすぐに呼べ」  姪はしっかり頷いた。 「あ、そうだ。多笑ちゃん」  佐和は姪の腰に紳士的に手をあてて、何かひとことアドバイスをしてから送り出した。  まだ客がまばらなアメリカンダイナーで、姪は壁を背中に、店全体を見渡せる席に座る。  俺たちは対角線上のカウンター席で、姪の姿をキッチン越しに見守った。  姪の別れ話や従業員のプライベートに踏み込むつもりはないが、心配は拭えない。お節介な叔父さんふたりが許されるであろう、ギリギリの距離感だ。  俺たちは次々に新聞を開いて、全体の見出しを見渡し、リード文に目を通す。  佐和がコラムにSSスラストの名前を見つけ、青色のペンでマークする。 「こういうコラムってずるいんだよ。ひとの会社のことを『小粒だ』とか『冒険しない』とか『資金調達が渋い』とか文句を言うくせに、総括で『地道に事業を推進してきた実力派の企業以外は躓いてしまった』って切り捨てるんだから。そんなの当たり前じゃん。地道に本業をやらなかったら、どこの誰だって躓くよ」  おそらく佐和は『資金調達が渋い』と言われたことが気に食わない。  最近、ウチの会社が資金調達に難航したという事実はない。ようやく派手な資金調達をしなくてもいいところまで持ち込んだ。俺がやりたいことはやらせつつ、これだけ会社に体力をつけたのだから、渋いと書かれたら面白くないだろう。 「ウチは派手さを狙ってるわけじゃないし、ユニコーンでもない。会社を売り飛ばすのが目的じゃないんだから、堅実で渋くていいんだ。パフォーマンスで資金調達をしている訳じゃないだろう」  佐和は俺に言われなくたってそう思っているが、自分ひとりで孤独にそう思うより、俺のひとことがあるほうが、モチベーションは上がる。  佐和は素直に頷き、コーヒーを飲んで、入口の人影に気づいた。 「あ、来た」  俺たちは新聞で顔を隠したが、相手はそれどころではないらしい。  彼は緊張した面持ちで、ひょろ長い手足をせかせかと動かして歩いてきた。俺たちの存在に気づく余裕もなさそうだ。  姪は足を組み、腕を組んで、ずっとスマホに視線を落としていた。  到着した彼を睨めあげ、何かひとこと言って、彼は椅子に座る。  会話の内容は聞こえないが、姪は不機嫌を貫き、彼は全身を強ばらせたままだ。  姪はスマホを操作しながら、彼は膝の上で両手を握りこぶしにしながらの会話が続く。 「僕、多笑ちゃんを怒らせるのはやめておこう」  佐和はおどけて肩をすくめ、おかわりしたコーヒーに口をつける。  短く口を開くやりとりが続き、言葉は聞こえなくても硬度の高い冷たい空気は伝わってくる。  泣き出したのは彼のほうで、姪は天井を見上げて息を吐いた。  姪は何か短く言い、相手のスマホを受け取って操作した。テーブルの上に投げるように返却して立ちあがる。 「もう終わったのか。早いな」  俺たちはコーヒーを飲み干し、新聞を畳んで重ねて抱え、彼の視界に入らないように静かに店を出た。  落ち合う場所は地下駐車場と決めていて、俺たちが追いついたとき姪はポルシェのボンネットに寄り掛かっていた。 「さいてーっ!」  姪は大きな声で叫び、笑っているのに涙をこぼし始めた。俺は地面を蹴って駆けつけ、姪の頭を胸に抱いて泣き顔を隠してやる。 「どっちも愛してしまったんだ、なんて。超、超、自己陶酔男っ! 多笑さんを傷つけたくなくて嘘をついたなんて言われたって、許さない!」 「それでいい。愛してるぞ、多笑!」 「知ってるぞ、さねおみ!」  ファンデーションもチークもマスカラも口紅も、全部俺のネクタイに擦りつけて、姪は今度は佐和の首に腕を絡めた。 「サワの言うとおり、感情に巻き込まれないようにしたよ。客観的に見たら、全然かっこよくなかったよ……もう好きじゃないっ! データも全部消してきた!」 「多笑ちゃん、よく頑張ったね。次の彼氏ができる前に、また僕たちとデートしようね」  佐和は姪の頭を撫でて、微笑んだ。  メイクを直した姪を、駅の改札口まで見送った。 「学校とママには連絡しておいた。気をつけて登校しろよ」 「さねおみ、サンキュ。サワも、本当に本当にありがとう。またね!」  何度も振り返り、ぴょんぴょん跳ねて手を振って、姪は人波に消えていった。  俺たちも大きく手を振った。  姪の後ろ姿を見て、佐和は呟く。 「女性って、いつでも美しくて可愛いね」 「女嫌いじゃなかったのか」 「ん? 妖精の杖(フェアリーワンド)の効果に、目をくらまされされたかな?」  佐和は首を傾げてとぼけ、俺はぐちゃぐちゃになったネクタイを外して胸ポケットに押し込んだ。  会社に向かって歩きながら、佐和が言った。 「多笑ちゃんの初恋は、さねおみなんだって」 「知ってる。佐和にかっさらわれた」 「本当は、今でもちょっとだけ好きで、ドキドキしちゃうんだって」 「それは初耳だ」 「サワだから、さねおみと結婚していいよって言ってくれた。僕、さねおみを生涯をかけて頑張って幸せにするねって、多笑ちゃんと約束したよ」 「ありがとう。一緒に幸せになろう」  佐和の力強い笑顔に、俺も笑顔で頷いて、俺たちはまた日常を始めた。仕事は面白くて、悔しくて、楽しくて、夕方まで全力で働いた。 「じゃあ、行ってくる」  佐和は来客対応中で、俺は軽くドアを開けて挨拶だけをした。  クセの強いメガネで相手に先入観を与え、油断した姿をつぶさに観察して攻略する。  甘えんぼの片鱗なんてまったく感じさせない姿に、俺はひとことつけ加える。 「あとで、電話する」  佐和はメガネを顔に押しつけながら、小さく頷いた。 「いってらっしゃい。電話を待ってる」  空港で通訳兼コーディネーターや、関連会社の担当者と待ち合わせ、移動する車の中で自己紹介をして、早速先方の重役たちと会食をしながらの折衝が始まる。  先方の担当者が切れ者で、会食の場を上手く回す。  うっかりしたことは言えないが、その攻防も楽しかった。提示された条件も最初から真っ向勝負で、さらに双方にとってよくするための前向きな話し合いが進んだ。  今回は、この結果を踏まえて次の国での交渉に臨む。連鎖する仕事なので、初日の成果は大きければ大きいほどいい。  収穫が大きかったぶん、ホテルに戻る時間は少し時間が遅くなった。しかし、時差はこちらが1時間進んでいるから、佐和はまだ起きているだろう。  明日の準備とシャワーを済ませ、俺はベッドに倒れ込む。GPS検索をすると、すぐに佐和からも検索されて、俺は通話ボタンを押した。

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