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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(70)

 耳許でアラームが鳴って止まり、佐和の甘いため息が聞こえる。いつものように抱き寄せて、それがクッションだったことに驚き、そうだここは出張先のホテルで、佐和とは通話したまま寝たのだと、見慣れない天井を見上げて理解した。  次のアラームが鳴るまでの心地よい微睡みの時間は、前夜のセックスの余韻を楽しむ時間でもある。  深く眠って体力が回復して、下腹部に甘い欲が疼くのを感じながら、昨夜の佐和と俺の乱れた姿を思い出す。  佐和の快感に追い詰められた声がとてもよかった。俺も妄想で慰めるのとは比べ物にならないくらい興奮した。  このまま、出張時のテレフォンセックスを、ふたりの習慣にしてしまいたい。  クッションを抱いて、佐和を思いながら口の中でキスの音を立てる。  くすぐったそうに佐和が笑った。 『まだ眠いよ、周防』 「寝ていていいよ。勝手にするから」  うるさいほどキスの音を聞かせて、佐和を笑わせた。 『そんなにキスしたら、唇が腫れちゃうよ?』 「そうしたら佐和がキスして治してくれるだろ? ほら、佐和。ちゅーして」 『ん、もう』  わたあめを食べるようなキスをくれて、俺はクッションを抱き締めた。 「恋心が募る。会いたい。土曜日、空港まで迎えに来て」 『いいよ。何なら、空港直結のホテルのデイユースも予約しちゃう?』 「それは名案。即即?」 『なぁに、ソクソクって?』 「会ったときに身体で教える」 『ふうん……ああ、そういうこと』  佐和が笑い、俺も一緒に笑う。 「検索したな?」 『だってスマホがあるんだから、検索するでしょ。いいよ、即即ね。準備しておく』 「マジか。佐和とつきあうと、こんなサービスまでアリなのか」 『でも、ご奉仕してくれるのは、周防だろ?』 「もちろん。誠心誠意、ご奉仕させていただきます」  楽しい約束をして笑っていたら、2回目のアラームが鳴った。 『おはよう。今日も1日、よろしくお願いします』 「こちらこそ。よい1日を」  互いにキスを贈りあって、気持ちよくベッドから起き上がった。  スケジュールはハードだったが、仕事は順調に進んで、最後のクロージングで太宰さんと合流した。 「ちょっと待て。周防、そのレベルの国際会議で本当に公知化されるのか? マトリクス表は最新か? 研究所の思い込みじゃないか?」  契約の直前、太宰さんが気づいてくれたおかげで、該非確認をやり直すことができた。  守秘義務があり、公知されない技術を、先方の研究所の勘違いで、あやうく違法に輸入してしまうところだった。その分野を専門とする何人もの担当者を経て作成した契約書に、そんな凡ミスはあるはずがない、という思い込みがよくなかった。 「情報の確認と共有が行き届いていませんでした」  そう報告を受けて、担当者レベルに差し戻し、再度契約書は作り直すことになった。 「ありがとうございました」  頭を下げる俺に、太宰さんはニヤリと笑う。 「ちょうど、お前に貸しを作りたいと思っていたところだった」 「絶対にめんどくさい話だということだけは、聞かなくてもわかります」 「それなら話は早い。買収を視野に、業務提携したいと言っている会社がある。お前のポケットマネーで簡単に買える規模の会社だ。決算書の内容はあまりよくないが、最新の半期で大きく改善している」 「改善しているなら、売らなくてもいいでしょう」 「創業家が今の女社長を認めていない。売りたがっている」 「女好きの太宰さんが『女社長』なんて下品な言い方をするのは、珍しいですね。『社長になるのに性別は関係ない』って女性起業家団体の支援までしているのに、どうしたんですか」 「その創業家は、新社長が女だから気に入らない。話を聞くあいだに腹が立ってくるだろうが、結婚を目前に控えて、国際会議のレベルや最新のマトリクス表の確認も忘れるくらい浮かれているお前なら、広い心でニコニコ話を聞いてやれるだろう。買い取ったあとで、お前が見込んだ人物を社長に選べばいい」 「佐和がようやくここまで会社に体力をつけたのに、また削るような買い物なんかしたら、結婚前に離婚されます」 「セリヌンティウスが、お前の買い物の邪魔をしたことがあるか? せいぜい車の色の候補を絞られるくらいだろう? たまには自己主張して、金色のガルウィングでも買ってみろ」 「都内でガルウィングなんて、不便と迷惑以外の何物でもないでしょう。金色のガルウィングは、大門団長が乗り回すからカッコイイんです。佐和の堅実なボディカラーの選択に文句をつけるくらい腹が立ってるなら、全額ご自分のポケットマネーで決着してくださいよ」 「公明正大にやりたい。女社長を愛人にしたとは思われたくないからな」 「そんなに小さな規模の会社なんですか」 「新進気鋭のSSスラスト様と比べたら、米粒みたいなものだ。吹けば飛ぶ。だが、歴史はある。女社長はマーケティングに長けている。買って損ばかりでもない」 「女社長も会社を売りたがっているんですか」 「創業家の大反対で、株を持つことができなかった。代表権は持っているが、経営権はない。お前が創業家から買った株を女社長に売って、女社長に経営権を持たせてもいいぞ。それはお前の自由だ」 「自由も何も、そうしろってことでしょう? 回りくどい。創業家と女社長のあいだに、それほどの溝があるなら、創業家は株主総会で女社長を解任すればいい。その女性も、ただ社長という肩書きが欲しいだけなら、自分で会社を作るほうが、よっぽど自由でしょう」  眉をひそめる俺に、太宰さんは突然明るい声を出す。 「お前『西部警察』は好きか?」 「ええ、好きですけど」 「大門圭介という男に説明に行かせるから、話を聞いてやれ」 「大門圭介! 西部警察の団長と同姓同名じゃないですか」 「一発で名前を覚えただろう? 月曜日にお前のところへ行かせる。お姉ちゃんにリスケしてもらえ」  受け取った名刺の画像には、本当に専務取締役・大門圭介と書いてある。 「これ、正当な理由なく『嫌です』って言ったらどうなりますか?」 「セリヌンティウス肝いりのポセイドン・プロジェクトに賛同しない」  俺は鼻から大きく息を吸って吐いて、お姉ちゃんにリスケを依頼した。    ポセイドン・プロジェクトは、SSスラストのCSV(戦略的CSR)だ。本業とは縁遠い寄付や社会貢献を通じて自社イメージの向上をはかるCSR活動に、ずっと納得しきれずにいた佐和が立ち上げた。  自分たちの強みを活かし、ビジネスとして社会問題を解決する。  佐和はこのプロジェクトで、学生起業家の支援をおこないたいと考えている。  構想を練り始めたときは、光島もメンバーに加わっていて、起業家支援のプラットフォーム構築にかかわった豊富な知識と経験をもとに、有益なアドバイスをくれていたのだが、袂を分かつ事態となった。ここで太宰さんにまで手を引かれては、心許ない。 「そういえば、光島さんの入院は長引いているのか?」 「さあ。焦らず治療に取り組む必要があるでしょうから、一切連絡はとっていません」 「そうか。元気になったら、また一緒にやりたいな」  俺は会社からの連絡を受けるふりでスマホを見て、返事はしなかった。  事実を知る人はとても限られている。太宰さんをはじめ、ほとんどの人には、光島は精神のバランスを崩して退職、離婚し、療養に入ったと説明している。  お姉ちゃんが暴力を受けていたこと、佐和がストーキングを受けていたことを喧伝し、人々の好奇の目に晒したり、面白おかしく尾ひれをつけて人の口に上らせるのは、俺が我慢ならなかった。 「とりあえず、俺と佐和のふたりで、大門さんのお話は伺います。嫌ですとは言いませんが、当社の事情を鑑みて、話をお断りすることは、あるかも知れません。ご承知おきください」 「もちろんだ。セリヌンティウスがダメだと言ったら、俺もお前もそれまでだ」  月曜日のスケジュール変更を確認し、俺は帰りの飛行機に乗った。  到着口を出るとすぐ目の前に、さらさらと前髪を揺らす佐和の姿があった。俺を見るのと同時に涙袋をふっくらさせてくれて、今すぐ抱き締めてキスしたいほど嬉しい。

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