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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(74)
「紅や高尾の、大門 専務がおいでです」
俺のスマホに内線がかかってきて、お姉ちゃんの声が聞こえる。
「俺の部屋にお通しして。すぐに行く……ああ、もちろん佐和も同席です」
佐和と小さく頷きあって立ちあがり、ジャケットに袖を通す。胸ポケットに入れている名刺入れの中身を確認し、襟を正し、袖口からワイシャツの袖が出ていることを確かめて、前ボタンを留めた。
「今日も1日、よろしくお願いします」
俺がまっすぐに差し出した手を、佐和がしっかり握る。
「こちらこそ、お願いします。よい1日を」
佐和が涙袋をふっくらさせてくれた。それだけで俺の肩からは余分な力が抜け、背筋が伸びて、胸を張ることができた。
「おはようございます。お待たせ致しました」
率先して社長室のドアを開け、そこに立つ人物に目を見張る。
うおおおお、団長っ!!!
そこに立っていたのは、かのアクション刑事ドラマ西部警察に出てくる団長、大門圭介へのリスペクト丸出しの人物だった。
時代錯誤な角刈り頭に、ティアドロップ型の色つきメガネ、ダークブルーのスリーピーススーツは幅広のピークドラペルに仕立ててあり、トラウザーズは膝から下がフレアになっている。ブルーのワイシャツの襟は市販品では見かけないハイカラーで、ダークブルーのネクタイがダブルノットで結ばれていた。
今の時代に全くマッチしない、いっそコスプレとも呼べる服装を、ビジネスシーンでここまで貫く人も珍しい。
俺は驚いたが、じろじろ見るのも失礼だ。
「おはようございます。外の気温が上がってきましたね。暑くないですか? 遠慮なくおっしゃってください」
資料をテーブルに置き、話しながらコントロールパネルの前に立って、これから男ふたりぶんの体温で上がるであろう部屋の温度を、先回りして少しだけ室温を下げる。
それから改めてテーブルを挟んで立ち、名刺入れを取り出した。
俺も佐和も最近はブライドルレザーの名刺入れを使っている。俺は外側が黒で蓋の裏地がクロームレッド、佐和は外側も内側も黒で、内ポケットだけがコバルトブルーだ。
特に記念日でもなく、佐和と一緒に街を歩いていて目にしたブライドルレザーに魅力を感じ、それぞれカスタムメイドで作ってもらった。
こんなふうに当たり前にお揃いを買えるようになったのも、俺の下心の積み重ねだ。
団長もとい大門氏は、昔の警察手帳みたいな黒革の名刺入れを取り出した。
「お忙しい中、お時間を頂戴致しまして申し訳ございません。私、株式会社紅や高尾、専務取締役の大門圭介と申します」
バリトンボイスと共に名刺を差し出され、ついうっかり
「ご本名でらっしゃるんですか?」
と訊いてしまった。
大門氏は曖昧に笑うだけだったので、俺はすぐに質問を引っ込めた。
「『西部警察』が好きなもので、つい前のめりになりました。失礼しました」
社会人になってから知ったのだが、芸名やペンネームとは言わないまでも、本名と違う名前で仕事をしている人はたくさんいる。
結婚後も旧姓を名乗るのだってそうだし、選挙の立候補者のように難読や誤読を理由に読みやすい表記に変える人もいる。その他、本名を気に入っていないとか、姓名判断の結果に従ったからとか、理由や事情は様々だ。
まずは受け取った名刺通りの名前を覚え、詮索せずに引き下がるべきで、俺は名刺入れの上に大門氏の名刺をのせて、胸の高さに保った。
大門氏はもう1枚、別人の名刺を差し出してくる。
「こちら、太宰先生から頂戴致しました」
太宰さんの名刺の余白には、癖の強い文字で『SSスラスト株式会社、周防眞臣CEO殿、佐和朔夜COO殿、株式会社紅や高尾、専務取締役、大門圭介氏をご紹介申し上げます』と書かれていた。
太宰さんの名刺を佐和と共有してから、俺たちも自分の名刺を差し出した。
「SSスラスト、代表取締役CEOの周防眞臣です」
「SSスラスト、取締役COOの佐和朔夜です」
佐和が名刺を差し出したときに、大門氏は佐和の顔を見たが、佐和は落ち着き払ったまま、表情を変えなかった。
「どうぞお掛けください」
「失礼します」
肩幅に足を広げ、その膝の上に肘を置いて両手を組む、ありきたりな仕草すら団長らしかった。
秘書室の男性がタイミングよくコーヒーを運んできてくれて、俺は大門氏にコーヒーを勧め、自分もひとくち飲んで、息をついた。
テーブルの上に置いた太宰さんの名刺に視線を落とし、大門氏は言葉を紡ぐ。
「私が困り果てていたときに、商工会議所の女性躍進フォーラムで、太宰先生が基調講演をなさったんです。その内容が大変素晴らしく、この方と見込んでおすがりしました。お嬢様はご迷惑をおかけするからやめなさいとおっしゃったのですが、太宰先生は丁寧に話を聞いてくださいました」
「あの人、女性経営者の逆境には奮起しますからね」
「ええ。ご自分でもそうおっしゃっていました。その後、ご連絡をいただいて、こちらへ参上するようにと。SSスラストのメロスとセリヌンティウスなら、何か面白いやり方で解決するだろう、見ものだと仰って、ご紹介くださいました」
「俺たちは学生起業家の支援に力を入れていて、女性経営者の問題には詳しくないんです。どこまでお役に立てるか」
懸念を正直に口にしたが、大門氏は大きく首を横に振る。
「いえいえ、太宰先生の秘蔵っ子、最終兵器と伺いました。何とぞよろしくお願いいたします」
「どこへ持っていっても断られる話の最終処分場なだけです。あの人は俺が逆らえないことを知っているから」
佐和は隣で小さく笑い、緩んだ口許をコーヒーカップで隠した。
「まずはお話を伺ってもよろしいでしょうか。こちらもビジネスですから、ステークホルダーに説明できないような商売はできません。そのときはお断りさせていただきますので、ご了承ください」
「もちろんです。私どもは江戸時代から続く紅屋です。伝統を守ることは必要ですが、それだけでは『花魁紅』を未来へ伝えていくことはできないと考えて、時代に合わせた商品もリニューアルしたり、開発したりしています」
大門氏はカタログを広げて見せる。
「古都お嬢様は、入社されたときからご苦労をなさっておいででした。弊社は女性向けのメイクアップ用品を製造販売しているにも関わらず、社員の9割が男性です。『男性の目から見た、好感度の高い女性をプロデュースする』、いわゆる男ウケがいいことが、メイクアップ用品の使命と考えていますから、必要なのは男性の目だと、こういう理屈なんです」
「なるほど。ユニークな着眼点ですね」
「男は女性に若さと謙虚さを求めるから、若く、健康的に見える、素顔と変わらない自然さで、控えめな色味を揃えるというのが先代の方針でした。こちらがその色のラインナップです。控えめな色味ばかりでしょう」
例えばアイシャドウは、日本人の肌に馴染みのよいゴールドやブラウン、控えめなパール、コーラルピンク程度だ。鮮やかなブルーや、元気のあるビタミンカラー、意志を強く見せるダークカラーはラインナップに入っていない。
ラインナップされた色を女性の顔に重ねてイメージし、俺は頷く。
「確かに、男性ファンの財布を直撃する大所帯のアイドルグループを連想させる色合いですね。主張がなくて、若くて従順で清潔感があって可愛らしいイメージです。もっと踏み込んだ言い方をするなら、スクール水着を着てカメラに収まる童顔のグラビアアイドル。このラインナップに、成熟した、自立した、自分の意思を持つ女性というイメージは受け取れませんね」
お姉ちゃんだったら、こんな資料を見るだけで、大暴れするだろうなと思う。
「おっしゃる通りなんです。時代の顔は、その時代に最も売れるアイドルが作りますから、今は、大所帯のアイドルグループのメイクに合致して、そこそこやっていけています。でもそれは今、現時点における偶然の一致でしかありません。ですが、なまじ売上があるものですから、先代社長は自信を持ちます。お嬢様の経験も提案も、はなから相手にしません」
「実績にしがみつく人を相手に、未来の話をするのは骨が折れますね」
安定した頭打ちの業界で、未来の話をする俺たちはいつだって異端児、風雲児だ。
うっかり情に流された俺を、大門氏は見逃さなかった。
「お願いです! お助け下さいっ!」
テーブルの上に身を乗り出して、角刈りの頭を深く下げられて、俺は軽くのけぞり、天井を見上げた。
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