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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(75)

「女だてらに社長なんて、会社の歴史と威厳に泥を塗ると先代はおっしゃっています。女が社長を名乗って取引先へ行ったところで、重要な話はできないし、誠意は伝わらないとお考えです」  大門氏の声はしょんぼりしていた。 「それは、今どき珍しいほどコンサバティブな考え方ですね」  寄り添うように言葉をかけると、うなだれたまま頷いた。 「ええ。ですが、どんなに旧時代的なお考えをお持ちであろうとも、弊社の株を100%所有していますから、こちらも下手な動きはできません」  傍観者のように黙っていた佐和が口を開く。 「先代の社長は、そこまで女性の社長を認めていないにもかかわらず、どうして高尾社長にその地位を譲ったんですか。ほかにも候補の方はいらしたのでは? その方をワンクッション挟む方法だって、あったはずです」  大門氏は頷いた。 「はい。お兄様もいらっしゃって、ずっと弊社の経理を担当されていたのですが、先代社長が退かれるときに、一緒にお辞めになりました」  佐和は僅かに眉をひそめたが、そのまま黙った。 「今のところ、急いで株を売るということは先代は考えていないようです。お嬢様が結婚して、お相手の方が跡を継いでくださるなら、その方へ譲渡したいとお考えなので……ですがお嬢様は、親から株を譲り受けるための結婚なんかしたくないとおっしゃっておいでです。それを聞いた先代は、それなら信頼できる会社に株を買い取ってもらう、女に株は渡さないと、半ば意地でいらっしゃいます」  俺は頷いた。 「困りましたね。ですが、男だからという理由だけで、何の知識もない結婚相手に家業を継がせるより、高尾社長が実力を発揮できる環境を整えるほうが、上手くいくんじゃないかと。今のお話を伺う限りでは、そういう感想を持ちます」  大門氏は顔を上げ、何度も大きく頷いた。 「そうなんです! それでこちらへお願いに参りました。太宰先生がおっしゃるように、先代から株を買い取り、お嬢様へ売っていただきたいのです」  提示された株価がどのくらい正当なのかは、あとで精査する必要はあるが、ざっと見た感じでは妥当な金額に見える。太宰さんが俺のポケットマネーでも買えると言った通り、さほど高額でもない。  大門氏は、俺と佐和に一部ずつ資料を差し出した。 「何の信頼関係もなく、ビジネス上のメリットもないまま、いきなり株の売買をする訳にも参りません。まずは業務提携を結ぶところからでいかがでしょうか。ご提案書をお持ち致しました」  製本キットで綴られた資料には『業務提携のご提案-地方を結んで新しい価値を創造する-』と書かれていた。  タイトルだけで、よく調べてあるなと思った。  地方創生は、最近俺がやりたいと思っていることのひとつだ。しかしまだ少しずつ地方創生に詳しい人に接触したり、話を聞いたりはしているだけで、佐和すら巻き込んでいない。 「俺が地方創生に興味を持っていると、どこからお知りになったのですか」 「SNSの記事を拝見して、最近、地方創生に詳しい方に多くお会いになっていることに気づきました。太宰さんが座長を務める地方創生推進コンソーシアムの委員にも最近お名前が入っていらっしゃいます」  俺が地方創生推進コンソーシアムの委員になったのは、光島が抜けた穴を埋めるという事情もあった。正式に名を連ねたのはつい最近のことなのに情報が早い。  ページを繰っていた佐和が呟く。 「周防を刺激する文言のオンパレードだ」  最低でも週休1日厳守と決めている俺と佐和と違い、働きたいだけ働く忙しい太宰さんに、大門氏はどう食い下がって、俺の情報までインタビューしたのか。たまに俺が太宰さんの時間をほしいときと同じように、移動する車や新幹線や飛行機に同乗し、食事をともにして、わずかな休息の時間を奪ったのかも知れない。  気難しいところがある太宰さんの懐へ、こんな短期間で飛び込めるのだとしたら、大門氏は相当なやり手だし、俺たちは褒め言葉に浮かれて足元を掬われないように気をつけなくてはいけない。 「全国各地の名を冠した口紅を作りたいのです。ひとくちに『紅』と申しましても、その土地の気候や風土によって好まれる色は違います。東京から一方的に発信するのではなく、地方発信の紅を全国に届けあい、相互理解にも、経済の活性にも、つなげていきたいのです」  話し方は静かだが、根底に熱意が感じられる。さらに大門氏は続けた。 「全国各地の人とコミュニケーションをとり、それぞれの土地で材料の調達から製造までおこないます。多くの工程がありますが、それらをワンストップで管理するシステムについては、調達から製造、販売、サポートまで、一貫して国内にこだわってきたSSスラスト様のノウハウが日本一かと存じます。お力をお貸し下さい」  株の売買が目的だという下心を忘れて気持ちを動かされる。 「ありがとうございます。今、俺は本社へ来なくても、それぞれの土地で暮らしながら本社勤務と同等の勤務ができる仕組みをつくりたいと思っています。本格導入する前にこのプロジェクトでいくつか試させていただいてもよろしいでしょうか」  これは単純な質問と交渉で、話に乗ると決めたつもりはなかったが、佐和は警戒したらしい。 「野暮なことを言って申し訳ありませんが、具体的な話を進める前に、与信チェックをさせてください。弊社の与信担当によるチェックのほか、僕は決算書と精査表と試算表、できれば元帳も拝見したい」  佐和の要求はとんでもなかったが、大門氏は愛想のいい笑顔で頷く。 「ええ、ええ、もちろんです。いつでもどうぞお越しください。お嬢様に株を買い戻すだけの資金があるかどうかも、お見せしなくてはなりませんし、弊社がどのような雰囲気なのかも、ご覧いただきたい。これから今すぐでも、私どもは結構です」 「今日はさすがにちょっと。秘書にリスケしてもらいます」  俺がお姉ちゃんに内線をかけると、大門氏は立ち上がった。 「秘書の方はどちらに? 直接交渉させていただきます」  フットワーク軽く部屋を出ていき、俺は佐和を見る。 「いきなり決算書を見せろとは厳しくないか。俺たちだって上場前は、簡単には見せなかっただろう。精査表や試算表はまぁわかるとして、元帳なんか機密情報だ」  冷めたコーヒーをふたりで同時に飲み干して、佐和は足を組む。 「紅や高尾とは取引実績もないし、社長の人柄だってわからない。そんな得体の知れない会社に、ウチの大切なノウハウをいきなり提供しろなんて言われたって、嫌だよ」 「社長の人柄はわかっているだろうが」  佐和は顔をしかめ、首を横に振った。 「わかんないよ。もう1年以上連絡をとっていない。1年あれば、人間なんて簡単に変わることは、周防だって知ってるだろ」  そう言われれば、俺は頷くしかない。  光島の件だって、もともと要素はあったにせよ、最後は坂道を転がり落ちるような変貌ぶりだった。 「それに僕が関わっていたのは、高尾社長のプライベートの部分だ。互いに仕事の話はしたことがない。忙しそうにはしてたけど、実際の仕事ぶりについて、僕は何も知らない。成果物もほとんど見たことがない。人物保証はできかねる」  佐和は厳しい表情で、テーブルの上の提案書を見ていた。 「まぁ、歴史のある会社だから、その実績は信じてもいいかと思うけどな」  取りなすつもりのひとことが、佐和の表情をさらに険しくさせた。 「歴史がないっていう理由で信用を得るのが難しくて、いつも悔しい思いをしている僕たちが、長くやっているというだけの会社をいきなり信用するって、どうなの?」  佐和の表情は険しくなるいっぽうで、唇が尖り、やや感情的になっているようにも見える。俺は小さく肩をすくめた。 「佐和、少し肩の力を抜けよ。眉間のシワが日本海溝になってるぞ」  人差し指で眉間をマッサージしてやると、佐和は口をとがらせたまま、大きく鼻から息を吐く。 「なぁ、佐和。仕事でも、プライベートでも、いついかなるときでも、俺は佐和に深く愛されていると感じてる。元カノにそこまで厳しい態度をとらなくても、俺は佐和の愛を疑ったりしないぞ?」 「ん」  佐和はまだ全身を総毛立たせ、しっぽを膨らませてふうふう言っていたが、低い位置にそっと手のひらを差し出したら、揃えた指先をちょっとのせた。  俺はその手を自分の口許へ持っていき、手の甲へ唇を触れさせる。 「元カノのよしみで甘い与信チェックをするのは、会社を危険に晒すから論外だが、不必要に厳しくする必要もない。フラットでいてくれ」  神経を逆撫でしないよう、静かに静かに話しかけたら、佐和は大きく息を吐いて頷いた。そのまま額を俺の肩に擦りつけてきて、安心させるために背中を叩いた。 「この案件は俺が担当する。与信チェックが終わった時点で、佐和は外れろ。向こうの担当者は高尾社長ではなく、大門氏を指名する。プライベートな関係はゼロだ。な?」 「うん。気を使わせて、ごめんね」 「お互い様だろう。あと数日は気疲れする日が続くだろうが、夜、俺がリラックスさせてあげるから、楽しみにしていて? ね?」  小さく頷く佐和を抱き締めた。

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