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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(76)
ドアがノックされて、大門氏が手帳を手に戻ってくる。
「明日の夕方、弊社までお越しください。迎えの車を差し向けます」
気づかいには感謝しつつ、俺は迎えの車を断る。
「車で通勤していますので、自分の車で伺います」
どんな待遇を受けても、佐和のジャッジは揺るがない。断る可能性もある以上、余計な厚遇は避けたかった。
「でしたら、弊社の1階に来客用の駐車スペースがございます。お使いください」
大門氏は愛想よく頷き、会社案内の地図に駐車スペースの位置を書き込んだ。
「では、明日。2階の受付へお越しください。担当の者がご案内致します」
「よろしくお願いします」
ふたりで大門氏をエレベーターの前まで見送って、ドアが閉まったのを見届けた途端、佐和は早足でトイレに駆け込んだ。
後を追うと、個室から激しく嘔吐する音が聞こえる。
「大丈夫か、佐和?」
「うん」
弱々しい返事のあとは、また嘔吐だ。食あたり、胃腸炎、感染症、急性虫垂炎、イレウス、あるいは脳の疾患。素人判断は危険だと思いつつ、いずれも思い当たる前兆はない。
そのかわりに思い当たるのが、終始厳しい表情で話を聞いていた、紅や高尾との業務提携と、明日の本社訪問だ。
俺はしょっちゅうだが、佐和がメンタルをやられて嘔吐するのは珍しい。自分の感情を整理するのが上手い佐和が、切り分けられない感情、反証できない思考とは、どのようなものなのか。
ミネラルウォーターと乾いたタオルを手にトイレに戻り、佐和が出てくるのを待った。
佐和は青白い顔で出てきて洗面台に向かう。メガネを外し、ワイシャツの袖をまくりあげて、何度も両手に水を汲んで顔を洗った。
嫌な汗をかいたのか、首の後ろや耳の後ろまで濡れた手で擦って、ミネラルウォーターを口に含んでうがいした直後にまた個室へ駆け込む。
「胃の中のものを全部出せば楽になる。焦らなくていいぞ、大丈夫だ」
一緒に個室に入り、背中を押すように撫でながら、横目で佐和の嘔吐物を確認する。特に出血等の気がかりな所見はなさそうだ。
口の中の胃液を吐き捨て、佐和は身体を起こした。壁に寄り掛かって胃の辺りを押さえ、顎を上げて喘いでいる。
「大丈夫か? 全部出たか?」
目を閉じたまま軽く頷いていたが、またこみ上げて便器の上にかがみ込み、黄色く泡立つ胃液を吐き出して、ようやく佐和は深呼吸した。
俺がトイレットペーパーで便座の飛沫を拭き取り、水を流して、消臭スプレーを振りまくと、弱々しい声が聞こえる。
「ごめん、周防」
「お互い様。ごめんよりは、ありがとうがいい」
「ありがとう」
「どういたしまして」
吐き気を警戒してゆっくりとうがいをする佐和を見守り、タオルを差し出した。鏡越しに俺を見て、わずかに涙袋をふっくらさせてくれたが、青白い顔は目つきも顎も、どこもかしこも尖っている。
佐和を執務室のソファへ寝かせ、タオルケットで覆う。その内側でタイトに仕立ててあるベストのボタンを全て外し、ネクタイとベルトを緩め、靴下を脱がせた。
俺が嘔吐したとき、いつも佐和やお姉ちゃんがしてくれるように、給湯室へ行き、やかんでマグカップ1杯分の白湯を沸かし、電子レンジで蒸しタオルを、冷凍庫の氷でアイスバッグを作る。
それらを持って佐和の傍らに戻った。蒸しタオルで顔や身体を拭く世話を楽しみ、胃の上にアイスバッグを置いて、過活発な胃を落ち着かせた。
「このあとの経営会議はスキップして、寝ていたほうがいい。財務関係は落ち着いていて、俺でも答えられる範囲だ。再来期の件は次回に回してもいいと思う」
「うん。でも大丈夫。再来期の件は、できれば今日の会議でコンセンサスをとっておきたい」
俺は強引なことは言わず、素直に頷いた。
「わかった。少し休んで、間に合うようだったら参加すればいい。議題は最後に回しておく」
「ありがとう、周防」
「どういたしまして。こういう時間もデートだろ」
佐和は閉じた目の上に手の甲をあて、肩の力を抜くように笑って、手探りで俺の手を握った。俺は佐和の手を受けて、ソファの傍らに片膝をついた。
「僕、情けないなー。好きな人の前では、もっとかっこよくしていたいのに」
「佐和が情けない姿を見せてくれたときは、俺にとっては付け込んで口説くチャンスだ。愛してる」
「ありがと」
佐和はちょっとだけ笑ってくれた。それだけでも俺は嬉しくなる。佐和の手の甲にキスをして、しっかりと握って励ました。
「何が佐和のメンタルを直撃しているのか、俺にはわからない。でも、佐和は何も悪くない。どんなときでも絶対に俺が一緒にいる」
佐和が何も言わなかったので顔を見たら、目の上に手をのせたまま、下唇を噛んでいた。
「そんなに強く噛んだら、唇が可哀想だ」
キスをしたら唇はほどけた。佐和はかすれた声で呟く。
「僕は、幸せすぎるね」
「そうか? 妥当な幸せだと思うけどな。結婚前の浮かれている時期なんだから、どん欲に幸せを味わえばいいのでは?」
「今がピークで、この先は不幸になるかな?」
それはまるで、不幸になることを期待するような口ぶりだった。こんなにメンタルをやられている佐和は本当に珍しい。俺はしっかりと佐和の手を握った。
「残念ながら、不幸にはならない。俺が一緒だから、どんな不幸だって楽しくて幸せだ」
「そっか。そうだよ……ね」
「俺たちはこれからもめちゃくちゃに働いて、毎日が楽しくて、若者にお節介を焼いて、流行の音楽を教えてもらう。引き際を考える割にやりたいことが次から次へと見つかって、結局定年まで働く。一緒におじいさんになったら、ぶ厚い眼鏡を掛けて本を読んだり、ゆっくりコーヒーを飲んだりする。俺たちは相変わらず男のくせにおしゃべりで、朝から晩まで真面目なこともくだらないことも、いつまでもたくさん話して笑おう」
「うん……そう、だね」
佐和の気持ちは全然上がってこない気配で、自分の無力さに打ちのめされるが、会議の始まる時間だった。
「落ち着いたらおいで」
まだ白っぽい頬に音を立てたキスをして、俺は先に会議を始めた。
その後、佐和は30分ほど遅れてミーティングルームに登場し、冴えた頭で会議に参加した。懸案の再来期についてもコンセンサスをとり、成果充分な会議になった。
「今夜は胃に優しいものを食べに行こう。18時半に地下駐車場で」
佐和は昼休みにビル内の内科へ行き、定時まで頑張り通して、お先ですと会社を出て行った。
俺はさらに2件のミーティングをこなして、約束の時間ギリギリに地下駐車場へ行く。
佐和は先に助手席にいて、ペンを片手に読書をしていた。今度はどんな青色の傍線を引いた本が、俺に与えられるだろうか。楽しみだ。
ドアを開けるとカーペンターズのトップ・オブ・ザ・ワールドが流れている。
「珍しい選曲だな」
「周防が入れてくれたんでしょ?」
俺はよく佐和のスマホに勝手に曲を突っ込む。好きな人には、自分の好きなものを知ってもらいたいものだし、自分の心境に近いラブソングだって聴いて欲しい。
だから、佐和がそう勘違いするのも無理はないのだが、しかし。
「俺は……その、もちろん、カーペンターズもいいとは思うけど。幸せの絶頂 なんてストレートに歌うドポップはあんまり。その時代ならサイモン&ガーファンクルのほうが好きだ」
佐和は見ているこちらが笑ってしまうほど、はっきりとうろたえた。黒目がちの瞳がくるくるとさまよい、スマホを慌てて操作して、車のセンターディスプレイには、俺の好みとよく似たプレイリストが表示される。
「ええと、周防が入れてくれた曲はこれかな?」
「惜しい! Maroon5 なら、『Sugar 』よりも『Sunday morning 』だ」
「うっそ。マジで? 本当に違うの?」
完全にフリーズした佐和の手からスマホを取り上げ、プレイリストをスクロールする。
「意外だな。グランジが好きなのか。Sonic youth は俺も好き。Mudhoney なんて、同じ汚い音好きとして、親近感が湧く」
グランジのほかにも、インダストリアル、ノイズなど俺が好きなジャンルの曲が並んでいて、佐和が間違えるのも無理はないと思う。
「ごめんなさいっ! 僕の勘違いだ。このプレイリストは消すっ」
スマホは奪い返され、佐和は俺の目の前でプレイリストを削除した。
「今まで一度もこんな失敗はしなかったのにな?」
笑いながら佐和の顔をのぞき込んでからかい、佐和は真面目な顔で頭を下げた。
「本当にごめんなさい」
「『周防、愛してる』は?」
「周防、愛してる」
佐和はとても真剣な顔で、俺の目をまっすぐに見て言ってくれた。俺は佐和の言葉にぎゅっと掴まれた心臓をかばって胸に手をあて、佐和の耳許へ精一杯仕返しの言葉を囁く。
「俺も愛してる。今夜、しっかりお仕置きさせてもらおう」
佐和は目を眇め、小さく身体を震わせた。
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