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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(77)

 佐和の胃に優しい食事がしたいとお姉ちゃんに訴えたら、薬膳料理の店を手配してくれた。  さまざまな香辛料や漢方薬のどこか懐かしさを感じる甘くすっきりした香りに包まれながら、山芋の粥や参鶏湯(サムゲタン)、千切りの大根を和えた蕎麦などを食べる。  佐和の頬には赤味が戻っていたが、表情は硬いまま、なかなか晴れやかにはならなかった。 「なぁ、佐和。この食事で、俺たちの日頃の不摂生をチャラにできるかな?」 「少しは解消できるといいね」  俺が何か言えば相づちを打ってくれる。あまり続かないが、会話も成り立っている。しかし、視線は合わない。佐和が俺の目から自分の心を隠そうとしている様子がはっきりわかる。  ある日突然、俺の部屋に本を運んできて、殺風景なマンションへ引っ越してしまったときの、あのそっけない佐和に戻ってしまったみたいだ。  佐和を追い詰めたくはない。俺はただ彼の姿を鑑賞しながら、彼の口に運ばれ、咀嚼される食べ物が、彼の力になってくれることを願った。  佐和がものを食べる姿には、育ちのよさが窺える。すらりと背筋を伸ばし、箸を美しく操って、食べ物を口の中へ消すように食ベる。  いいなぁ、俺も佐和の口に食べ物を運び、その舌に触れる箸になりたい。  そんな不埒なことを考えつつ、輪郭のくっきりした唇を見ていたら、突然その唇が動いて話し掛けられて、俺は箸先からネクタイへ煮込んだアワビを落っことした。 「失礼。佐和に見とれていて、話を聞いてなかった。箸になりたいと思ってた」 「箸?」 「そう。佐和の口に食べ物を運んで、舐めてもらえる。箸がうらやましい」  ネクタイを拭いながら正直に答えた俺に、佐和は噴き出した。 「正直者には、金でも銀でもない普通のアワビをあげる」  自分の皿からアワビをひと切れつまみ上げ、俺の口へ入れてくれた。  普段なら、おまけにセクシーなセリフのひとつも囁いて、俺の心臓を射抜いてくれそうな状況だが、恋人同士の色っぽいやりとりは何もないまま、デザートの玄米甘酒ムースを食べて店を出た。  夜の街のあちこちに、東京オリンピック開催までをカウントダウンする数字が光る。  佐和はその電光掲示板の数字を見ながら言った。 「僕、マリッジブルーみたい」  一緒にカウントダウンの数字を見て、俺は頷いた。 「一生に一度の結婚だ。マリッジブルーも一生に一度のことだろうから、しっかり味わえばいい。納得できるまで一緒に話し合って、考えよう」 「うん。ありがとう」  一緒に顔を上げた先に、東京タワーがあった。 「佐和。よければ、久しぶりにいつものところで話すか?」  佐和は小さく首を傾げた。 「上手く話せなくて、黙っていてもいい?」 「もちろん。沈黙の共有だって、佐和となら幸せだ」  車を駆って、東京タワーのふもとにある公園の第2駐車場へ行った。  誰からも忘れ去られていると思っていた秘密基地だが、東京オリンピックに向けた公園整備計画に組み込まれて、工事用の仮囲いで覆われていた。  工事の予定を書き込むホワイトボードと、完成予想図の上に、東京オリンピック開催までのカウントダウンが表示されている。 「時は流れるんだね。好むと好まざるとに関わらず、僕たちは同じ場所にはいられない」  佐和の言葉に頷きながら、一緒に車を降りた。  完成予想図のイラストは、緑があふれる公園に、バリアフリーの舗道や、災害時にはかまどになるベンチが描かれ、木洩れ日の中を老若男女が笑顔で行き交う。そのイラストの中に一組の家族の姿を見て、俺は突然に思い出した。 「まだ大学1回生の頃、佐和と家族になりたいと強く思った瞬間がある。そのときは、絶対に叶わない、変なことを考えたと思った。でも、人生は何が起こるかわからないな」  気持ちのままに佐和の手を握った。 「そうだね。僕も周防と結婚するなんて、考えてもいなかった」  佐和も逃げずに握り返してくれて、俺はつないだ手を軽く揺すった。 「古都ちゃんと結婚する予定だった?」  自ら地雷を踏み抜く覚悟で質問をした。  今、佐和が激しく嘔吐するほど強く考えているのは古都のことだろうし、だとしたら少しでも佐和の気持ちが軽くなる手伝いをしたかった。  佐和は目を伏せて、顔から表情を消し、また俺の目から自分の心を隠そうとする。  俺は佐和の手を優しく握り、心がけて柔らかく穏やかに話した。 「今の恋人に、過去の恋人の話をするのはマナー違反かもしれない。でも親友に、過去の恋愛に残してきた気持ちや後悔を話すのは、マナー違反でも何でもない。俺はいくらでも聞く」  佐和は目を伏せたまま、頷くように小さく頭を下げた。 「ありがとう、親友の気持ちには感謝する。でも、恋人の気持ちを大切にしたい」 「恋人の気持ちに関しては、今夜ベッドの上で落とし前をつけてもらうから、ご心配なく。しっかり苛めさせてもらう」  佐和はため息をついて、小さく笑う。 「僕は親友にも恋人にも恵まれて、幸せすぎる」  視線の先には、小さな女の子を抱く男性とベビーカーを押す女性が、木洩れ日の中を寄り添って歩く家族のイラストがあった。 「子どもが欲しい?」  だとしたら、俺たちにとっては、かなりの難問だ。おそるおそる訊ねたら、佐和は勢いよく首を横に振った。 「無理無理無理無理。僕は、周防以外の生命体と一緒に暮らすのは、2泊3日が限界! 観葉植物ですら、気配がうるさい! 鬱陶しい!」 「はあ?」  今まで、姪やニーケー号や観葉植物を可愛がって世話している姿こそ見てきたが、疎んじる気持ちなど欠片も感じたことがなかったので驚いた。 「プライベートに踏み込まれるのは、本当に苦手。ペースを乱されるのは我慢できない。テンポが合わせられなくて、鬱陶しくて、面倒くさくて、苛立つ。自分の部屋に何らかの生命体がいると思うだけで気が重くなって、帰りたくなくなる! 観葉植物でも、大人でも無理なのに、赤ちゃんや子どもなんて、絶っっっ対に無理!」 「はあ」  かつてショッピングモールの福引きでもらった観葉植物が、俺の部屋に置かれていた理由を初めて知った。  呆気にとられている俺の前で、佐和は公園の完成予想図を見つめ、悲しそうな声で言った。 「僕の性格と思考回路が原因で、いったい何回別れたか。数え切れないよ。こんな恋愛不適合な僕が好きな人と上手くいって、結婚することになって。幸せすぎて、申し訳ない。こんなに幸せで、僕は許されるのかな」  自分が他者より幸せであることが申し訳ないなんて、思春期の少年のように美しい悩みだ。コールタールな俺とは真逆のマリッジブルーに陥っている親友を、俺は心の底から愛しいと思った。力づけ、励ましたい気持ちでしっかり手を握り、話し掛けた。 「幸せなんて、光を当てる角度ひとつで変わる。佐和はこれから、一生俺に懐かれる鬱陶しい生活を強いられるんだぞ?『あんなに暑苦しい周防くんと結婚する羽目になって、佐和くんってば可哀想』と思う人だって、たくさんいるはずだ」 「そんなことない。僕は周防と結婚できて、死ぬまで最高に幸せだ!」  強い語調で言い切る佐和の言葉尻を掴む。 「古都ちゃんもきっとそう思ってる。気難しい朔夜くんと別れて大正解! 最高に幸せ! 服もアクセサリーも自分の一存で選べるし、遅くまで飲み歩ける。合コンにだって行けるし、たまにはホストクラブで遊ぶのもいいかも。旅行先で気を利かせて服を畳んで怒られることもない。めんどくさい年下男の生意気なプライドを守ってやる必要もないし、淡白なセックスに不満を募らせることもない。無理に時間を作ってデートしなくてよくて、思う存分仕事に打ち込める。佐和と別れて、彼女は、彼女の幸せを謳歌してる」  佐和の幸せですら心配になって何度も確かめてしまうのに、古都の幸せなんて見当もつかない。しかし俺はただ佐和の気持ちを底上げできればよかったので、平気でいい加減なことを言った。  佐和は眉を八の字にして、少しだけ笑ったが、また完成予想図の中の家族を見た。 「僕は彼女の時間を無為に10年近くも奪っちゃった。彼女が子どもを授かりたいと思っていることを知っていたのに、もっとも適した時期を僕に使わせちゃった」  佐和は小刻みに震える下唇を噛んだ。家族のイラストに強い眼差しを向ける姿には、精一杯現実を見つめようとする強さが感じられた。  しかし、黒目がちの瞳は厚い水の膜で覆われて揺れていた。 「全然仲良くなくて、いつもケンカばっかりしてたのに、懲りずに消耗戦を繰り返した挙げ句に、積み重ねた手間や時間を僕はちゃぶ台みたいにひっくり返した。『僕は一生、周防に片思いして生きていく』なんて言ったくせに、さっさと周防と両思いになって……ずるいよね」  涙が一筋こぼれて、佐和はますます家族のイラストを睨みつけた。

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