144 / 172

【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(78)

「ごめん。これは、僕がひとりで片づけなきゃいけない感傷なんだ。こんなふうに口に出して、周防の耳に聞かせるべきことじゃない。わかってるのに。僕の器が小さくて、気持ちが弱くて、こらえきれなかった。ごめんなさい」  家族のイラストの前で、佐和は泣きじゃくっていた。白っぽくなるまで強く握った拳で力任せに涙を拭いて、それでも止まらない涙をアスファルトにこぼしていた。 「僕は何度だって自分を責めて、後悔しなきゃダメなんだ。心の中だけでごめんなさいって言って、時間を返せない代わりに、全力で周防を幸せにする努力をして、勝手に古都ちゃんの幸せを祈って自己満足して、前へ進み続けなきゃ。わかってる」  佐和の思い詰めた思考に、俺のほうが先に耐えられなくなった。両肩を上げ下げして肩の力を抜き、深呼吸をして、空気が読めないふりをして横槍をぶち込んだ。 「ひとつ質問。観葉植物すら同居できないのに、なぜ俺は大丈夫なんだ?」  佐和は俺に向かって振り返り、真っ直ぐに答えた。 「ままごとじゃない、実際の生活だから。僕たちの関係には性差や年齢差がなくてイーブンだから。自分のことは自分でできて、甘えたいときは勝手に甘えることができて、互いのペースを大きくは乱さないから。ほかにも理由なんていくつだって挙げられる。でも」 「でも?」 「本当はたぶん理屈なんかじゃない。僕は周防のことを好きだから、許せちゃうんだ。周防が何をしたって、愛しいんだ。だから僕は、周防とは一緒にいられる」  今まで何度か似たような質問をしてきた。いつも佐和なりの理屈があったのに、好きだから許せるなんていう答えは初めてだ。俺は喜びと驚きに喉を塞がれて、言葉が出なかった。 「僕の原動力は、周防を好きだ、愛してるという気持ちだ。周防のためなら、全力を出せる。初めて会った日から、たぶん僕の原動力は変わってない。それなのに僕は周防に惚れてるってことに気づかなくて……もっと早く気づいて、周防に気持ちを伝えていたら、周防と古都ちゃんだけじゃない。ひょっとしたら光島さんの変な思い込みと、クレイジーな行動だって防げたかも知れないし、そうすればお姉ちゃんだって傷つかずに済んだかも知れない。それに……」 「ちょっと待て、佐和。ストップ」  マイナス思考のスパイラルに嵌まった佐和に手のひらを向け、佐和の手首を掴んで家族のイラストの前から引き剥がした。  道路の反対側に、先に整備工事が終わって開放されている公園があり、ベンチと水飲み場があった。  佐和が口にした光島の名から、俺は学生時代に聞いた言葉を思い出す。 『座ったまま『感想戦』をしてください。立ち上がってはいけませんよ。男子は立ち上がるとすぐに手が出ますから。私は拳で解決するようなやり方は認めません』  かつて佐和と大喧嘩をして、佐和を光島のマンションへ迎えに行った日に言われた言葉だ。  俺は水飲み場で佐和に顔を洗わせ、ベンチに座らせて、近くの自動販売機でミネラルウォーターを2本買った。  ベンチに向かって歩きながら、佐和の言葉の数々を反芻し、俺に言えること、できることを考えた。どのような順番で話そうか。どのような顔をして、どのような声のトーンで話そうか。  顔を洗った佐和は、まだ赤い鼻をぐずぐず鳴らしながら、ベンチの背もたれに寄り掛かって東京タワーを見上げていた。うずくまって地面を見ているよりは、望みがある。  俺は佐和の手にペットボトルを持たせ、隣に座った。  充分に自分の気持ちも落ち着けて、佐和の呼吸も落ち着いているのを見てから、口を開く。 「まず最初に。佐和、ありがとう。こんなに深く愛されて、大切に思われていることを知って、俺はとても嬉しい。俺も深く佐和のことを愛してるし、大切に思ってる」  佐和は小さく頷いた。俺は佐和に顔を向けて話した。 「ただ、ひとつ誤解を解いておきたい。俺は佐和と出会ってから今日までの時間を、一秒たりとも無駄に思ったことはない。むしろ積み重ねてきた宝物だと思ってる。時間を返して欲しいなんて、これっぽっちも思っていない」  佐和はうつむいたまま、下唇を噛んでいた。 「確かに、俺は佐和にずっと片思いをしていたけれど、佐和が想像するほど悲壮な時間ではなかった。佐和と一緒に、ひとつの目標に向かって、肩を並べて突っ走る時間は、とても充実している。攻略すべき課題はいつもハードモードで全身が痺れるほど楽しいし、爽快感も達成感も大きい。そういう時間の積み重ねが、今を作っていると思ってる。それは、佐和も同じだと思うけど、どう?」  佐和は、はっきりと頷いた。 「恋愛の部分については、俺にも非がある。佐和との関係をすべてダメにするという最悪の事態だけは避けたくて、追い詰めることをしなかった。佐和に冗談として受け取って、笑ってもらえる範囲でしか告白しないと決めていた。次の日からどうしたらいいのかを考えたら、とても本気の告白なんてできなかった。佐和も知っているとおり、俺は臆病だ」  俺の言葉に、佐和は深く頷いて、口を開いた。 「周防は臆病でいい。臆病じゃない会社のトップなんて、危なっかしくてしょうがないから、臆病をやめる必要なんかない。その臆病の裏返しが喧嘩っ早さなんだと思うけど、そっちは僕が一緒にいるから、何とかなるよ」  すぐにスマホを取り上げられる俺は、今後もよろしくお願いしますと頭を下げ、佐和もいえいえこちらこそと頭を下げる。  佐和を取り巻く空気が少し和らいで、俺は自分の考えを話した。 「光島の件があったときには、俺も何度も過去を振り返った。タラレバを考えられるポイントは、いくつも思いついた。でも、いい方向に変わったとは限らない。出会った瞬間から思いが通じてつきあっていたら、俺たちは大学へ行かずに色事に耽溺していたかも知れないし、俺は努力なんか何もしなくて、今ごろ身を持ち崩していたかも。起業せずに監査法人へ入っていたら、配属される部署や支店が違って心まで離れていたかも知れないし、もっと光島に困らされていたかも知れない。そのときどきの判断が常にベストチョイスだったのかどうか、今さら検証する手段はないけれど、少なくともモアベターなタイミングを俺たちは選んできていると思ってる」  佐和は頷くような、首を傾げるような曖昧な角度に頭を傾け、同意は得られなかったが、言葉を続けた。 「古都ちゃんの胸の内に関しては、俺はまったくわからない。でも、恋愛はふたりでするものだろう。古都ちゃんだって自分の意志で佐和と恋愛しようと決めて、佐和との恋愛に満足していたんじゃないのか」 「んー」 「古都ちゃんにも時間を使わせただろうけど、同じだけ、佐和も時間を使った。試合結果はドローだと思うけどな、俺は」 「んー」  佐和は首を傾げるだけでなく、上半身まで傾けていく。その肩を俺は抱いて、佐和の耳に話し掛けた。 「全っ然、腑に落ちてないな?」 「うん。どうしてこんなに納得できないのか、不思議なくらい」  困ったように佐和は笑い、俺はオールバックに調えられた黒髪に音を立てたキスをした。 「佐和が古都ちゃんのことを大好きだったからだろ? 俺のことを好きだと自覚しても、勝算ゼロの片思いだと思っていたなら、その感情は心の隅に置いて、古都ちゃんと関係を続けてもよかった。20代後半にもなれば、理想と現実の落とし所として、そういう判断だってできるはずだ。それをわざわざ誠実に別れを切り出したのは、それだけ古都ちゃんを大好きで、大切に思っていたからじゃないか?」 「どうかな」  佐和は俺の肩に額を押しつけ、首を傾げて見せたが、声は涙で震えていた。俺は佐和の当時の心境を言い当てたと思う。 「俺に対して、古都ちゃんのことが大好きだったとは言いにくいだろうけどな。俺の勝手な憶測を続けさせてもらうなら、佐和は本気で、古都ちゃんの幸せを願って別れる決意をしたんだと思う。それなのに耳に入ってくる近況は芳しくないものばかりだ。動揺するのは当然だと思う。佐和が別れず一緒にいれば、もう少しマシな展開に持って行けたかも知れないよな」 「僕にそんな力はないよ」 「そう? 俺は佐和と生涯添い遂げると決めているから、今さら古都ちゃんとヨリを戻せなんて言うつもりはないけどな。でも、考えてみろよ。こんな俺たちだって、少しは古都ちゃんの役に立てるかも知れないぞ?」  佐和は泣き濡れた顔を上げて、光る黒目で俺を見た。 「なぁ、佐和。俺たちは明日の午後、どこへ、何をしに行くんだっけ?」 「紅や高尾へ、与信チェック……待って、僕は紅や高尾に有利なジャッジをしたりはしないよ?」 「わかってる。でも、会社の中へ入れてもらって、内部の雰囲気も帳簿も見せてもらうんだよな? 俺たちが手伝えることのひとつやふたつ、見つけられるんじゃないか」  佐和は目を見開いていた。俺は左右の口角を軽く上げて、佐和に派手なウィンクを決めてみせる。 「『周防、愛してる』って、ほっぺにキスしてくれていいぞ?」 「周防、ありがとう。心の底から愛してる」  佐和は俺の頬にキスをして、さらに耳に唇をつけて囁いた。 「家に帰ったら、いっぱいお仕置きを受けるね」  かすれた声に、俺は目眩を感じて目を閉じた。

ともだちにシェアしよう!