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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(81)

 佐和はクローゼットの中から、自分が引き立て役に徹するとき用の、まったく艶のない、地味で無個性な平織の灰色のスーツを引っ張り出した。 「はあ?」 「何?」  互いに剣呑な声を出し、俺は紺色のシャドーストライプのスーツを引っ張り出して、灰色のスーツと入れ違いに佐和の身体に押しつける。 「いちばん似合う、自分に自信を持てるスーツを着てくれ。与信チェックの結果がどちらでも、説得力のある姿でいてほしい」  佐和は小さく数回頷いて、素直に紺色のスーツを身につけた。 「これでいい?」  肩幅に足を開き、背筋を伸ばし、軽く顎を上げて俺を見る姿に、俺は賞賛の拍手をした。 「素晴らしい! さすが俺の佐和!」  片膝をついて佐和の手をとり、その甲に派手な音を立ててキスをした。  朝の擦り合わせをしたあとは、別行動になった。  佐和は融資の件で銀行の法人営業部を訪問し、俺は社内ミーティングを立て続けに3本こなす。  秘書室の前を通りかかったら、お姉ちゃんに呼び止められた。 「社長、これから紅や高尾さんに訪問でしょ? これを持って行って」  菓子折りとおぼしき紙袋を渡してくれる。 「ありがとう。最近、古都ちゃんと連絡とってる?」 「離婚したあと、気分転換しようって旅行に連れ出してもらって以来かな。いつでも連絡がとれると思うと、油断しちゃうよね」 「じゃあ、佐和が俺と結婚するって話は伝わってない?」 「うん、話してない。朔は結婚について騒がれたくないって言ってるし、全部済んでからのほうがいいかなと思ってたけど。連絡しておこうか?」 「いや。こんなタイミングで連絡したら、結婚祝いを催促するみたいで気まずいから、しないで」  俺は手土産を受け取って執務室に戻り、否が応でも緊張してくる自分の頬を叩いて、しつこく身だしなみを調えてから、地下駐車場に向かうエレベーターに乗り込んだ。  佐和が動揺しているときは、自分の動揺は棚上げだったが、いざ佐和と古都が再会するシーンを目の当たりにするかと思うと、心臓が疼くような焦燥感と不安と緊張に苛まれる。  佐和がヨリを戻すことはないと信じているが、以前、偶然に見てしまった写真では、美男美女のお似合いカップルだっだ。  ケンカをするくらい安心できる関係だったのだろうし、何度だってやり直そうと思えるくらい好きだったのだろう。  俺との結婚を知らなければ、古都は佐和との再会を機にワンチャンあるかもと考えるのではないか。  いやいや、ワンチャンなんかない。  もともと俺と佐和は互いに一目惚れだったみたいだし。最初から俺たちは結ばれる運命だった。  今は俺が佐和のハニーでダーリンでチョコレートで砂糖菓子で恋人で婚約者だ。佐和は女性とのセックスは苦手だったらしいが、俺とのセックスは大好きで、積極的で、めちゃくちゃエロくて、乳首を弄られると「周防、気持ちいい」って何回もイクし、積極的に腰を振るし、腕枕で寝るし、俺の脇の下の匂いを嗅いで喜んでる変態だし。  俺は佐和の全部が愛しくて、世界中の人に見せびらかしたいが、同時に宝箱の中にしまっておきたい。そうか大きくて透明な宝箱を作って、そこに佐和を住まわせれば…… 「落ち着け、俺!」  散らかる思考を止めるために、思わず口に出し、エレベーターに乗り合わせていた人たちから怪訝そうな目で見られて、咳払いをして背筋を伸ばした。  それでも足の裏が火に炙られるような焦燥感と不安と恐怖は続いていて、途中階で降りてコンビニに寄る。  佐和の好きなミネラルウォーターと、自分が好きなコーヒーを買い、レジの奥にずらりと並ぶ棚を見て、久しぶりに煙草を吸いたいと思った。  ライターと携帯灰皿と一緒に、当時とはまったくパッケージデザインが変わってしまった煙草を買い求めて、愛車に乗り込んだ。  運転席に座り、空気清浄機能をフルパワーにして、口の端にフィルターを引っ掛ける。ライターの炎を手で覆い、軽く首を傾けて火をつけた。  久しぶりの喫煙は、初めての喫煙と同じくらいの緊張と罪悪感、そして期待感があった。  ゆっくり肺まで吸い込んで、ジャズを聴くような甘い酩酊を感じるつもりだった。  しかし俺の感覚が変わったのか、メーカーが配合を変えたのか。口の中に転がして味わいたい甘美さはなく、刺さる辛味とへばりつくような苦味だけを感じる。 「ちくしょう」  ひと口で嫌気がさして揉み消し、ミントタブレットをざらざらと口に入れた。  その一粒は手からこぼれて足元に落ち、身を屈めて拾い上げる拍子にハンドルに後頭部をぶつける。 「いってぇ。あー、いろいろ上手くいかねぇな」  頬を膨らませて強く息を吐き、左右の膝を揺らし、心身の緊張を緩めてから、注意深く車を発進させた。  首都高に乗ってすぐ、スマホが鳴動し、佐和に居場所を検索された。 「お、佐和朔夜。銀行の面談が終わったか?」  検索し返すと、銀行ではなく、中央通り沿いのデパートにいた。 「買い物?」  不思議に思っていたところへ、お姉ちゃんから着信があった。 『社長、お菓子! デスクの上に忘れてる!』 「うっわ、マジかー! 高速に乗っちまった。久々にやらかしたなー、俺」  緊張する訪問先ほど、手土産を忘れるクセがある。いつもはお姉ちゃんが気をつけて声をかけてくれたり、出る直前に手に持たせてくれるのだが、まさか紅や高尾へ行くのに、俺がそんなに緊張するとは、思っていなかっただろう。 『副社長がデパートで買うって言ってるから、大丈夫。古都ちゃんは昔と変わってないよ。サバサバしてて優しいから、安心して』 「ういっす」  俺はデパートから横断歩道を渡った先のパーキングメーターに車を停めて、佐和を待った。  古都の会社と同じくらい古くからある老舗デパートで、豪奢な金色の装飾を施した建物から、紙袋を手にした佐和が出てくる。  身体のラインに沿ったシャドーストライプのスリーピーススーツを着て、磨いたレースアップシューズを履き、背筋を伸ばして、大股で颯爽と歩く。  しかし人の流れには気をつけて、高齢の女性に道を譲り、子どもと目が合えば微笑む。  柔らかな午後の光を浴びて、佐和は王子様だった。 「女が放っておくわけがないよなぁ。俺も放っておかないけど」  俺の姿に気づいて軽く手を挙げ、横断歩道を渡ってくる姿は、サングラスをかけたくなるくらいキラキラしていた。  軽く微笑めば、頬の盛り上がりが光を受けて輝き、オールバックに調えている髪はテーマパークで見かける王子様と同じくらい完璧で、クールな一重まぶたと力の宿る黒目がちの瞳には、世界はどんなふうに映るのかと夢想する。  あまりの眩しさに、俺はサングラスをかけて佐和を迎えた。 「お疲れ。余計な買い物をさせてごめん」 「お疲れ様。久々にデパートの中を歩き回って、面白かったよ」  話しながら、着ていたジャケットとデパートの紙袋を後部座席に置き、助手席に座る。  いつもならすぐにシートベルトに手をかけるのに、佐和は俺の左手首に手をかけた。 「衝動買いしちゃった」  佐和はイエローゴールドのバングルを、俺の手首に嵌めた。  バングルには時計に使われる1~12までのローマ数字が刻まれている。  佐和はシャツの袖を軽く捲って、シルバーゴールドのバングルを見せる。 「僕もお揃い。今までも、これからも、ずっと一緒に時を刻んでいきましょう、なんて。僕のくせに、ちょっとロマンチックな思いつきをして、衝動買いしちゃった。もし気に入ったら、気が向いたときに使って」  なぜこのタイミングで、佐和は俺にペアジュエリーをプレゼントしてくれたのだろう。  佐和はバングルを嵌めた俺の手を握り、身体ごとまっすぐ俺を見た。 「僕は周防眞臣を世界で一番愛してる。この気持ちが揺らぐことは、絶対にない。今日の仕事が終わったら、僕はこの話から抜けるし、二度と高尾社長に会うことはない。だから、これから数時間だけ、このブレスレットを見ながらこらえて」 「あ、ああ」 「今はもう本当に何もないんだけど、もし不愉快に感じることがあったら、それは今夜、僕が全部引き受ける」  俺の手を握り、まっすぐに見て話してくれる佐和の姿は王子様そのもので、俺はサングラスを掛けていてよかったと思った。

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