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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(82)

 佐和がシートベルトを締めるのと同時に車を発進させる。  中央通りの渋滞を避け、並行している昭和通りのアンダーパスを使った。  それでも午後の渋滞を完全に避けることはできず、真っ赤なテールランプが灯る最後列につけて、そっとブレーキを踏む。 「あ、タバコ。パッケージ変わったんだね。懐かしい」  佐和はパッケージを手に取って鼻先にあてる。 「久しぶりに吸いたくなった。でも味が変わってて、全然美味くなかった」  しかめっ面の俺に、佐和は小さく笑う。 「そっか、残念だったね。僕、タバコは嫌いだけど、火をつける前のこの匂いは好き。温かみがあって、甘くて苦くて。周防の匂いに似てる」  俺は自分の腕を鼻に近づけてみたが、佐和の言う匂いは感じなかった。 「自分ではわからないよね。僕、学生の頃、このタバコを買って、持ち歩いてたことがあるよ。周防の匂いがするなーと思って」 「初耳だ」 「初めて言ったもの」  佐和は耳と頬を赤くして笑う。 「いつだって俺がくっついて歩いているんだから、俺の匂いを直接嗅げばいいのに」 「んー、今ならそうするけどね。でも仕事中や運転中は無理じゃん」  佐和はそう言って、またタバコの匂いを嗅いだ。 「今夜も俺の匂いを嗅ぐ?」 「うん」  佐和は素直に頷き、俺たちは声を立てて笑った。 「銀行はどうだった?」 「いつもと同じ受け答え。新規事業の名目だけでこの金額は貸せないから、半分の金額はメイン事業の拡充と書いてくれって言われたけど、なんとかなるんじゃない。銀行から借りるばかりが資金調達の手段じゃないしね」  佐和の表情に憂いはなく、俺は感服する。 「さすがだ。場数が違う」 「10年間、毎日毎日資金繰りを考えてたら、誰でもこんなものじゃない? 周防だって、最近は全然、胃のあたりを押さえなくなった」 「言われてみれば、最近そういうことはないな。心臓にはハリネズミの毛が生えたし、胃はチタン製になった」 「ハリネズミの毛? 針じゃないの? あれは毛なの?」  スマホでハリネズミを検索して、佐和は笑っている。  一緒になって笑ったが、俺はまったく強くなれていない。元カノの存在に動揺してタバコなんか買ったりして、情けねぇなと思う。  カーナビの案内に従って入り込んだのは、宝飾品の問屋街だった。かつての寺町と花街に囲まれた場所にあり、全国から仏具やかんざしなどの職人が集まったのが始まりで、今は宝石や地金の看板がずらりと並ぶ。  駅周辺は国内外からの観光客で混雑しているが、一本道を外れれば、都会でありながら土着した人の往来が多く、のどかさが漂う。  紅や高尾の本社ビルも、そんなのどかな一画にあった。  高度経済成長期、宇宙開発競争が盛んだった1960年代に建てられたものだろうか、当時流行した近未来的なデザインが盛り込まれている。  全体はウグイス色の釉薬がかかったタイルが張り巡らされ、窓は角の丸い太い白枠で立体的に囲まれていて、ガラスの扉は今どき珍しい、金色のペンキで裏側から社名が書かれている。  佐和は勝手知ったる様子でガラスのドアを押し開け、六角形のタイルが埋め込まれた階段を数段上って、エレベーターの丸くて小さい凸型ボタンを押した。 「来たことがあるのか」 「会社は初めて。最上階が自宅だから、そっちは何度か」 「自宅? いちいち親に挨拶してるのか?」  階数表示を見上げる佐和の横顔を見た。その鼻梁や唇、フェイスラインをとても美しいと思う。佐和は顔を上げたまま、軽く肩をすくめた。 「挨拶なしでお付き合いなんか、させてもらえなくない? 本人だって、親に紹介できないような男とは付き合わないと思う」  ずいぶんなご令嬢とばかり付き合ってたんだな。そう言おうとして、佐和だってなかなかのご令息だということを思い出した。  小学校から私立の附属校に通って、エスカレーター式に大学まで。幼い頃からの習い事と部活動は乗馬だった。  ご令息とご令嬢で、バランスのとれたお付き合いだったということか。 「相手の親なんて、佐和の親以外、会ったことがない」  軽く息を吐く俺の隣で、佐和は微笑んだ。 「親に隠れて逢瀬を重ねる恋愛もいいよね。ロミオとジュリエットみたいでロマンチックだ」  相手をけなさず、肯定的な言葉を選び、ロミオとジュリエットに喩えてフォローするあたりも、育ちのいいご令息っぽい。 「俺はロマンチストだからな」  笑って返事をしたが、そんなご令嬢とは、つきあったことがないだけだ。  エレベーターのドアが開くと、すぐ目の前が受付のカウンターで、大門氏が背筋を伸ばして立っていた。 「周防社長、佐和副社長、お待ち申し上げておりました。本日はお忙しいところ、わざわざお運びくださいまして恐縮でございます」  流れるような挨拶と仕草に誘導されて、社長室へ通された。 「ごきげんよう。どうぞお入りになって」  紺色のタイトスカートとジャケットに、真っ白な開衿のブラウスを着た古都が、先の細いパンプス姿で立ちあがった。

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