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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(83)

 そう、ごきげんようと挨拶するのだ、附属校の出身者たちは。  相手を思いやる気持ちが含まれていて、しかもあらゆるシーンで使える便利な言葉らしいが、残念ながら俺の口には馴染まない。  俺は恵まれた家庭に生まれ、両親をはじめ家族の愛情をうっとうしいほど受けて育ってきた自覚がある。その教育方針にも感謝しているが、佐和が『ごきげんよう』と挨拶する相手は温室育ち、こちらは野山育ちと相容れなくて、どうしても苦手意識が生じる。 「ごきげんよう、周防社長」  自然にその言葉を口にする古都に対し、俺は自信と余裕のあるふりで目を細め、口角を上げて会釈した。こういう小さいところに引っ掛かって、佐和にすら打ち明けられずに10年以上も悶々としている自分を、いつまでも臆病で情けねぇなと思う。 「周防社長と、きちんとご挨拶するのは何年ぶりかしら。改めまして、私、紅や高尾の高尾古都と申します」 「改めまして、SSスラストの周防眞臣と申します。お名刺頂戴致します」  俺が名刺を交換して、次に佐和が名刺を交換した。佐和の声は低く冷たく、目は伏せられていて、相手に好印象を持たれようという意欲がまったく感じられない。 「佐和です。頂戴します」  必要最低限の挨拶だけで、口は真一文字に結ばれる。  俺は身体の左側面に佐和の冷気を感じながら、古都に向けて左右の口角を強めに上げて目を細めた。古都も紅を塗った唇でくっきりした笑みを作る。 「どうぞおかけください」  勧められて、木の肘掛けがついた黒革のソファに、佐和と並んで腰掛ける。  それぞれ自分の名刺入れに相手の名刺を載せ、ローテーブルの右上の位置に据えた。  大門専務みずからが煎茶を運んできてくれて、会釈で受けた。  古都は俺の正面に座る。膝頭を揃えて、きちんと磨いたパンプスのつま先まで、ストッキングに透ける肌を斜めに流して微笑んでいた。   持ち前の美貌に、日々の努力が幾重にも重ねられた、真珠のような美しさを目の当たりにして、姪の「古都ちゃんと別れるなんてありえない」という言葉を思い出す。  しかし、恋人でもない女性の容姿を、いきなり褒めるようなセクハラはできない。  しかも、ソファの座面とローテーブルの天板が同じくらいの高さなので、揃えた膝とスカートの布地のあいだに三角形の影ができていた。  ビジネススーツを着て、応接用のソファに座るというだけのことだが、こちらは自分の視線に一層気を遣う。  もとより相手の肩より下には視線を下げないようにしているが、さらに気をつけて視線を上げた。  俺は会話の糸口を求め、壁にかかる抽象画の額に目を留めた。 「絵の具ではなく、布ですか?」  淡いクリーム色から、深い真紅色まで、さまざまな色の、さまざまな形の四角形の布が接ぎ合わされていた。  鮮やかな色も多く、辺も角もかっきりとしているのに、なぜか柔らかさを感じる。 「素材も年代もばらばらだけど、全部紅花で染めた布です。着物や帯として使われていた布を集めて、再構成したものなの」 「高尾社長が?」  聞き返した俺に、古都は笑って手と首を横に振る。 「いえいえ、とんでもない! 私は、家庭科の成績が悪くて高校を留年しそうになったくらい、不器用なの!」  同時に佐和が拳を口許にあてて咳払いで誤魔化した。何か笑いをこらえるような、よほどの不器用伝説を持っているらしい。 「一度に染まる色は淡くて幼いんです。それはそれでいい色ですけど、深い真紅に染まるまでには、何年もかかります。紅花染めは空気と水が冷たく澄んだ真冬の作業なので、濃い色に染めるためには、何度も真冬の作業が必要なの」  古都の話に頷いていると、俺の革靴の左側面に微かな衝撃があった。  視界の端で、佐和が一瞬だけ動かした視線を辿る。  社長室には廊下との出入り口のほか、本棚の隣にもうひとつドアがあり、そのドアは奥の部屋に向けて開けられていた。  俺たちが座っている位置からは、その床にも社長室と同じ絨毯が敷かれていることくらいしかわからないが、人が集まっている気配がある。おそらくは重役や経理マンたちが集まって、事の成り行きに耳を澄ませているのだろう。  佐和が業務提携にGOサインを出すかどうかが、紅や高尾の未来に影響する。経営陣が心配して次の間に控えるくらいは、してもいいだろうと思う。 「失礼します、直近3年分の決算書をお持ちしました」  ローテーブルの上に置かれ、俺と古都は邪魔にならないように、それぞれ相手の名刺を収めて、名刺入れをポケットへ入れた。  佐和も自分の名刺入れの位置を動かすために、ローテーブルへ手を伸ばし、自分の手の延長線上に古都の膝頭を一瞬だけ見る。佐和は、ビジネスの場で自分の視線を読ませるようなミスはしないから、戦略的に自分の視線を動かしたのだと思う。 「高尾社長。何か膝に掛けるものをお持ちですか」  ぴんっと張った佐和の声に、隣の部屋の空気まで軽く引き締まる。 「ええ、膝掛けがありますけど」 「では、お使いください。御社の経営陣の皆様方への根回しやご判断には、そういう露出度も必要なのかも知れませんが、僕の判断にまで効果があると誤解されるのは心外です。僕はそんなものには影響されずに判断します」  膝頭が見えるタイトスカートを穿いてでも成し遂げたい仕事が古都にはあるのだろうし、そうやって仕事を回さねばならないほどの苦境にも立たされているのだろう。  佐和の声と視線ははっきりと次の間へ向けられていて、佐和副社長ってば、しっかりぶち上がってるじゃねぇか。 「申し訳ありません。佐和は少々潔癖なところがございまして。弊社の人事労務も担当していて、ハラスメント対策には神経を尖らせておりますもので」  俺は隣で頭を下げ、古都は晴れやかな笑顔で立ちあがって、自席から持ってきたブランケットで膝を覆った。  佐和はもう古都には視線を向けず、足元に置いていた自分のビジネスバッグへ手を掛けながら、指先を揃えた手の平を俺から古都へ向けて動かす。 「どうぞご歓談を」  身勝手にも思える言い方に、俺と古都は思わず苦笑いだ。  何となく見守るなかで、佐和はナイロン製のビジネスバッグを開けた。学生時代から愛用し続けている電卓と、メモ用紙と多機能ペンをローテーブルに並べる。社内では見慣れているが、取引先に持参する姿は初めて見た。  さらにシリコン製の小さなリングを三つ取り出し、右手の親指と人差し指の先と中指にひとつずつ嵌めていて、佐和はガチでやる気だ。 「拝見します」  軽く息を吸うと、ローテーブルに置かれた決算書を開く。俺ですら佐和の思考を追えなくなるスピードで、確認すべきポイントからポイントへ、素早く目を動かしていく。ときどきメモを取り、電卓を叩いて、黙々と作業を進めた。  学生時代に受けた簿記検定の試験会場よりも緊張感がある。かといって黙って佐和のチェックを見守っているのも息が詰まる。古都が口を開いた。 「先日の展示会で、おふたりのトークショーを拝見しました」 「ありがとうございます。コーディネーターに上手く話を引き出していただきました」 「『愛せるライバルを探せ』という言葉に、考えさせられました。ビジネスの現場では、敵に囲まれて、味方なんてひとりもいないって思ってしまいがちだから」  佐和はページを繰る手を止め、資産の項目に目を留めた。過去3年分、同じ項目を見比べていく。 「お話し中に失礼。試算表と、総勘定元帳も拝見したい。あと、資産と売掛金と仮払金と貸付金の元帳。それからメインバンクと信用金庫の通帳も」  さすがに大門氏の肩が揺れる。 「佐和副社長がおっしゃる通りにお持ちして」  古都のきっぱりとした声に、要求通りの資料が揃った。  試算表はともかく、総勘定元帳や、資産や売掛金や仮払金や貸付金の元帳、さらには通帳なんて、最初から粉飾決算を疑ってる銀行か、本気で税金をぶんどる予定の税務調査並のチェックじゃねぇか、と言いたいのを飲み込んで、成り行きを見守った。

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