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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(84)
「社屋は個人所有で、会社に貸してらっしゃるんですね。珍しいやり方じゃないですけど」
資産の項目を見ながら淡々と所見を述べる佐和に、古都は頷いた。
「住居とは完全にわかれてるから、税務調査で引っかかったことはありません。ただ、社屋は会社の資産ではないだけ」
佐和は頷きながら、貸付金と仮払金の帳簿を見る。
「お父様はお元気ですか?」
「ええ、元気です。田舎暮らしに憧れて、高原にログハウスを建てて、母とふたりで移住しました。早期リタイアって言うのかしら。もう会社の実務には関わっていません」
「そう。高尾社長は大変でしたね。急に社長に就任することになって」
「私が自分からやるって言ったんです。父に引退を勧めたのも、私です」
「それは、親子双方にとって英断でらっしゃった」
佐和が貸付金と仮払金から何を読み取っているのか、さっぱり話が見えなかったが、一緒に帳簿をのぞき込める雰囲気でもなく、左手首のバングルを撫で、刻まれた時間を指先で辿りながら、大人しくしていた。
「信頼していただけそう?」
古都の問いかけを、佐和は聞こえなかったように無視をして、代わりに俺に指令を出した。
「周防。その紙袋の中の箱をふたつとも、社長にお渡しして。大きい箱はお菓子だから、皆様で。小さいほうは社長のお気に召したらいいんだけど」
デパートの包装紙に包まれた箱をふたつ差し出した。
「ありがとうございます。開けてみてもいいかしら」
「どうぞ。小さい箱のほうは、気に入らなかったら変えてきます」
手土産で先方の質問をはぐらかした佐和は、通帳と残高証明へ手を伸ばす。腕時計の革バンドの隣に、銀色のバングルが小さく光った。
古都は、佐和の手の動きを一瞬だけ目の端でとらえたが、すぐ小さな箱の包みへ視線を移し、包装紙に手を掛けた。
小さな桐箱を開けると、銀製の五弁の花が現れた。直径3センチほどで、蕊の部分には真珠が一粒あしらわれている。
「素敵なブローチ! ありがとうございます。帯留めにも使わせていただくわ」
佐和が何も反応を示さないので、俺が営業スマイルを作って相槌を打った。
「お気に召してよかったです。不勉強でお恥ずかしいですが、帯留めというのは、着物を着るときに使うものですか」
「帯締めという紐に通すアクセサリーです。帯の真ん中にこんな紐と飾りがついているのをご覧になったこと、ありますかしら」
メモ用紙にざっと絵を描いて説明してくれて、俺は何となく把握した。
「なるほど。男の着物にはないアイテムですね。社長は着物をよくお召しになるんですか」
「ええ。お茶を習っているんです。ご興味はおありかしら? 来月のお茶会にご一緒しません? お社中だけの気軽な集まりなの」
佐和は4冊の帳簿をテーブルに広げ、メモ用紙にいくつかの数字を書きとめながら、間髪入れずに口を挟む。
「周防、頷いちゃダメ。茶道をたしなむ人が言う『気軽な集まり』は、僕たちにとっては顔も名前も分からない親戚の法事に参列するくらい気疲れする」
「申し訳ありません。私は佐和には逆らえませんので、また次の機会に」
おどけて頭を下げたタイミングで、佐和はスマホを手にする。GPS検索の通知が来た。通知し返すとすぐ、佐和は切り出す。
「申し訳ありません、社から急ぎの連絡が来ました。車に戻って対応してきます。僕が戻るまで、このページは絶対に動かさないでください。経理の方が様子を見に来られても、このままにしておくようにと、お伝えください。僕たちは17時にここへ戻ります」
佐和は立ち上がり、俺を連れて車に戻った。運転席と助手席に並んで座り、すぐに俺は訊ねた。
「何があった?」
「帳簿の数字が合ってなかった。ああやって帳簿を置いてくれば、経理担当者が察して、僕が戻るまでに間違っている箇所を突き止めて、正しい数字の帳簿に差し替えるはず。僕も会社を始めたばかりの頃、そうやって指摘してもらって難を逃れたことがある」
「直接指摘したらダメなのか」
「僕は今、自分の会社と業務提携をするに相応しい会社かどうかを見極めてる立場なんだから、ミスを指摘するような温情はダメだろ? そんな情けをかけたら、自分の会社を危険に晒す。でも、あの数字は先代社長の負の遺産で、本人たちは責任をとって退任してるからね。そのくらいは直してあげてもいいかなって。どのみち次の税務調査で引っかかることだし」
助手席で、佐和はミネラルウォーターのキャップをねじ切り、喉へ流し込んだ。
「税務調査なぁ。税務調査が来たときの税金の支払い方って、絶っ対におかしいよな」
税理士や会計士を通したやりとりを思い出すと、自然に唇が尖ってくる。
「それは言わないのが大人の約束。解釈の違いを認めて、素直に修正して納税すればいいんだ。スモーク貼りの黒いワゴン車に連れ去られるのはイヤだろ?」
くすくす笑う佐和に、俺は大げさに訴える。
「俺たち、めっちゃくっちゃ納税してるぞ? 個人でも払って、会社でも払って。来月は自動車税の通知が来る! 固定資産税も! 今日はたばこ税と消費税も払った!」
「僕たち、国民の義務を果たしてるね!」
佐和は声を立てて笑ってから、また表情を引き締めた。
「帳簿を見る限りだけど。先代社長はおそらく私的流用を繰り返していた。仮払金や貸付金は決算に合わせてゼロに戻してあるから、決算書を見るだけではわからないんだけど、元帳を見ればわかる。お兄様が経理を担当していて、全部パパの言いなりだったんだろう。妹の古都ちゃんと違って、お兄様はパパとママの言うことを素直に聞くタイプ、というか自分の頭で考えるということをあまりしないタイプだ」
「私的流用の責任をとって、父親と兄は退職したのか」
「そういうことだと思う。古都ちゃんが不正に気づいてブチ切れたんじゃないかな。期末を待たずにその場で辞めさせている感じ。僕の記憶では、前社長は根拠なく調子のいいことを言って、安請け合いする印象があった。僕が会社経営に携わっていることを知って、変な投資話を持ちかけられたこともある。僕としては、あまり信用したくない感じの人だった」
「それで粉飾決算を疑っていたのか」
「うん。昨年、税務調査が入ってて、指摘を受け入れて少し納めてるから、それで全部チャラになってるけど、違う解釈で仕訳していたり、作ってる数字はあるね」
「社長室に戻って、どうジャッジする?」
「周防がやりたいなら、僕は叶える」
「古都ちゃんがそこまでして会社の健全化を目指しているなら、協力したい。少なくとも膝上丈のスカートや、上から覗けば見えそうなブラウスを着なくてもいいくらいまで、お手伝いさせていただきたい」
「わかった。帳簿に関しては、直近半年間の内容は合格点だ。データバンクから取り寄せた評価はB++で、ウチの会社ならディレクター決裁で取引を開始できるレベル。まだ健全な数字に持ち込んでからの時間が短いし、あの経営陣に囲まれて、古都ちゃんがどこまで頑張り通せるか未知数なのがネック。業務提携をするなら、付帯条件として、1年毎に契約を見直し、都度決算書の提出をお願いしたい」
佐和の言葉に俺は頷いた。
「俺は紅や高尾と業務提携をしたい。その方向で進めてくれ」
「わかった」
佐和はもうひとくちミネラルウォーターを飲んで、ぎゅっとキャップを締めた。俺は時計がまだ17時を指していないのを見て、肩の力を抜く。
「数字を追う佐和の姿はセクシーで、つい見とれる」
「そう? 周防、鏡で自分の顔を見たことある? 世界で一番セクシーでカッコイイよ」
その言葉で、チョロい俺は簡単にバックミラーを覗いた。隣のスペースに佐和の顔もあらわれる。
「僕たち、お似合いだね」
周囲を見回し、誰もいないことを確認してから、佐和は素早く俺の唇を奪い、頬を染めて照れた。
社長室へは、わざと5分遅れて戻った。
帳簿は正しい数字に直っていたらしい。佐和は黙って帳簿を閉じた。
「ありがとうございました。確認させていただきました」
古都だけでなく、次の間からも安心したような空気が感じられた。大門氏は額の汗を拭いて、佐和の顔をのぞき込む。
「佐和副社長、いかがでしたか」
佐和は俺を見て、俺が頷いて許可を出してから、話し始めた。
「正直に申し上げて、この決算書の内容で、御社を信用するのは難しいです。こちらもステークホルダーに対して説明責任を負っています。説明できない相手との業務提携はできません」
「そうでしたか」
古都も大門氏も明らかに肩を落とした。佐和は言葉を続ける。
「ですが、直近半年間の帳簿の内容はだいぶいい。社長はじめ、皆様のご努力の賜物でしょう。このままお続けになれば、次の決算書はよくなるでしょうし、その次の年の決算書はもっとよくなる……ように、してくださいますよね?」
佐和は沈んでいた古都の顔をのぞき込んだ。
「もちろんです!」
古都は表情を明るくして頷いた。佐和は一瞬だけ左右の口角を上げた。
「契約は1年単位でお願いします。契約更新の前には、決算書をご提出いただきたい。その内容によって、次の1年の契約を結ぶかどうか、考えさせていただきます。ご存知だと思いますが、弊社の決算書を始め、ステークホルダーに向けた情報は、すべてWeb上に公開されていますので、いつでもご覧ください」
「わかりました」
佐和は古都の目を真っ直ぐに見た。
「僕たちは大学2回生のときに起業して、今まで約10年間、どうにか黒字経営でやってきました。経済雑誌の『もっとも入社したいベンチャー企業』で1位にもしていただきました。それでもまだ業歴の短さや、僕たちの若さや、学生時代に遊び半分で起業したというイメージを理由に与信チェックではじかれたり、鼻で笑われたり、話を聞いてもらえなかったりします。悔しいけれど、いずれ認めていただけるように、試行錯誤を繰り返しながら頑張っていくしかありません」
しかし、続ける言葉に、佐和は明るく声を張る。
「でも、信念を持って行動すれば、理解者は必ずあらわれるし、味方もできます。応援してくれる人も、話を聞いてくれる人もいます。高尾社長の強いお気持ちとお人柄なら、きっとすぐ多くの支援を得られるようになります」
佐和は次の間に向けて声を張った。
「聡明な経営陣の皆様が、高尾社長の強力な味方となって、御社がこれからますます発展されると信じています!」
古都に視線を戻し、佐和ははっきり告げた。
「そういった未来までを評価対象にして、今回は業務提携可能と判断させていただきます。よろしくお願い致します」
「ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願い致します」
古都は小さく会釈して微笑んだ。佐和はローテーブルの上に広げていた電卓や筆記具をビジネスバッグの中へ片付けながら言った。
「僕が関わるのはここまでです。あとは周防が担当させて頂きます。ぜひとも社長の味方になりたいと申しております。僕と違って情に篤く、常識があり、機転が利く。とても情熱的で優秀な人物です。味方につけておけば、何かと便利なはず。使ってやってください」
佐和は爽やかな笑顔で俺の背に手を当てて、俺は笑顔で「よろしくお願いします」と頭を下げた。
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