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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(86)

「古都ちゃん、家はここから近いの?」  重たそうなバーキンを肘にかけ、タイトスカートに爪先の細いパンプス姿の古都に、佐和が声をかけた。 「この上。親がリタイアして空き部屋になったから、引っ越したの」  天井を指差している古都に、佐和は苦笑する。 「具体的な住所は教えてくれなくていいんだけどさ。近いなら、荷物を置いて、似合う服に着替えてきたら? 10分くらいなら、待ってるよ」 「そうね。じゃあ、そうしようかな」  古都はエレベーターに乗ってビルの最上階へ行き、すぐにボーダーカットソーと白のワイドパンツ、グレーのジャケットを着て戻ってきた。足元はスカーレット・レッドのバレエシューズで、ありきたりなマリンテイストにアクセントを加えている。ファッション雑誌のコーディネートをそのまま着こなして似合う、古都のポテンシャルの高さを感じる。  佐和は古都の姿に何も言わなかったが、一瞬だけ、口許に小さく笑みを浮かべた。  俺の視界に佐和と古都が同時に存在すると、やっぱりお似合いだよなぁと思う。 「ごきげんよう、か」  つい独り言を口にしてしまい、俺は慌てて「仕事の話。何でもない」と打ち消して、皆と一緒に天ぷら屋へ向かった。  賑やかなアメ横商店街を横切り、不忍通りに入ってすぐのところに店はあった。大きなビルに挟まれた細長いビルで、店のおもてには色紙大の看板がひとつあるだけの目立たない店だった。 「太宰さんの紹介で参りました、周防です」  名乗るとすぐに縞の着物に真っ白な割烹着をつけた年配の女性が出て来た。 「ようこそいらっしゃいました。久し振りに太宰社長からお電話を頂いて、嬉しかったですよ。腹が減っているようだから、しっかり食べさせてやってくれっておっしゃってました」  下町の女将さんらしい歯切れのいい言葉の中に、佐和の文句がしっかり伝わっていて、佐和は苦笑している。  白木のカウンター席は客で埋まっていて、その向こうに白髪頭をぴたりと調え、糊の効いた白衣を着た男性が天ぷらを揚げている。客たちはタネを扱う包丁さばきや、太い木箸と細い金属箸を交互に操る手に視線を送りながら談笑していた。 「どうぞ、お2階へご案内します」  階段を上がって突き当たりの引き戸を開け、靴を脱いで襖を開けた先は、半円形のカウンターが置かれた掘りごたつ式の座敷だった。佐和と古都は何も打ち合わせていないのに、一番端と端に距離をおいて座り、真ん中を俺と大門氏で埋める。  カウンターの内側には、金色に透き通ったごま油の銅鍋と、きめの細かな小麦粉、水に溶いた玉子色の衣、厚みのあるまな板、出番を待つタネを並べるための陶板などがあり、見習いと思われる二十歳前後の青年が静かに立ち働いていた。 「これからどうぞよろしくお願い致します」  俺はノンアルコールビールで乾杯し、前菜の葛豆腐や白身魚のお造りを食べながら、細かな炭酸を喉の奥へ滑らせる。 「俺が前に古都ちゃんと会ったのって、10年前くらい?」  首を傾げ、軽い口調で訊ねる。古都も気さくに頷いた。 「そうだと思うわ。周防くんがバイト帰りに、凛々可を迎えに来たときよね。凛々可がずーっとくだを巻いているのに、周防くんは笑顔でずーっとつきあって、相づちを打って、お酒をついで、枝豆の殻まで剥いてあげて、おんぶして帰ったの。覚えてるわ」 「そうだったっけ? お姉ちゃんが怒ってたのだけは、覚えてるな」  その日、俺はバイト先で女性起業家の現状を垣間見た。  お姉ちゃんはバーベキュー会場で、料理は女がするもの、男の世話を焼くものという古くさい常識を押しつけられて激怒していた。  あの当時の女性経営者は、会社経営をしていた夫や父親にアクシデントがあって、ピンチヒッターとして社長の座に就くケースがまだ多く、自分の意志で起業する人のほうが少なかった。10年経って、女性はどのくらい、自分の夢や希望や信念によって、計画的に起業ができるようになったのだろうか。女性はどのくらい、自分の恋愛や性を代償にせず、正当な理由によって大口の資金を獲得して大規模な経営展開ができるようになったのだろうか。そして、少しは男性の部下を指揮しやすくなったのだろうか。  そして男性は、自分の衣食住を女性にゆだねず、主体性を持って考えるようになっただろうか。帰宅後の家事や出勤前の育児を、どのくらい担うようになったのだろうか。 「始めさせていただきます」  揚げ場に、居合術に臨むような静かな声があった。1階の店主とよく似た顔立ちの女性が糊の効いた白衣を着て立つ。古都とあまり年齢は変わらないように見えるから、店主と親子なのかも知れない。  白い帽子の下の黒髪は、櫛目が見えるほど強く(くしけず)られ、縛る音がギリギリと聞こえそうなほどキツく束ねられている。  俺はふと思い浮かんだ疑問を、古都に投げかけた。 「古都ちゃんは『女だから』って思われたくないって、肩肘を張ることはある?」 「いくらでもーっ!」  古都は俺に向かって両手をメガホンにして笑う。 「お疲れっす!」  俺はわざと明るく元気よく飲みかけのグラスを突き出し、古都も身を乗り出してグラスをぶつけてきた。 「男性だって、女性多数で構成されるコミュニティーでは、やりにくいものです。着替えをする場所すら困ります。私はビューティーアドバイザーをしていたんですよ。最初のうちは肩身が狭かったですねぇ」 「ビューティー・アドバイザー、とは?」 「美容部員です。デパートなどの化粧品売り場にいる、ユニフォーム姿の女性を見たことはありませんか? 最近は少し男性も増えましたが、圧倒的に女性が多い職場です」  思わぬ経歴に、隣に座る大門氏を見た。大門氏は頬を盛り上げて笑う。 「私が新卒で入社した当時は、制服はスカートだけで、男性が着ることを想定した制服は用意されていませんでした。女性のお客様も、驚かれます。溶け込むのは難しかった。女性にとっては当たり前、常識なことを何もわかっていないんですから、お客様に寄り添った商品説明をするにも苦戦しました。でも、メイク用品を買いに来る男性客は結構いらっしゃるんですよ。ご自分でお使いになる方がほとんどですね。そういうお客様には重宝されました」 「俺は文化祭の女装くらいしかメイクの経験はありませんが、化けて粧う楽しさはあるように思いました。メイクをすることで普段の自分の枠を飛び越えられる、可能性が広がるような感じがしたのを覚えています。たとえが極端かもしれませんが、男性や女性に求められる『らしさ』を吹き飛ばして笑う、ドラァグクイーンのような」  大門氏は金色の油を見ながら、ドラァグクイーンという単語に小さく笑う。 「私も若い頃は、ドラァグをやっていました」 「ええっ?」  銀色の肌をなまめかしく光らせたキビナゴが、おしろいのように細かい小麦粉と薄い衣をまとって、温度の低い油のなかを泳ぐ。 「私が一番遊んでいた頃は、芝浦GOLDというクラブが面白かったんです。周防社長のお年だと、そんな場所はご存知ないでしょう?」 「GOLDの名前はさすがに知っています。日本のクラブシーンの発祥地ですよね。ハウスミュージックの選曲がよかったとか。そういえば、ドラァグクイーンがたくさん踊っていたと聞いたことがあります」 「私も踊っていたひとりでしたねぇ。最先端のディスコで踊りたい人はジュリアナ、新しいカルチャーを求める人はGOLDという感じだったでしょうか」  人の経歴というのは、聞いてみないとわからないものだ。大門氏の、よく見ればきめの整った美しい肌につい視線を留めた。 「あらやだ、そんなに見つめられたら、ウチの会社の基礎化粧品の効果がバレちゃうじゃない!」  唐突に攻撃を食らい、俺は飲みかけていたノンアルコールビールを噴きそうになって、おしぼりで口を押さえた。 「あたしの肌は豆腐みたいなもんなの。絹ごしに見てもらわなきゃ困るのよ」 「直接見ても、お美しいですよ」  小さく首を傾げながら言うと、大門氏は顔を赤くしてぐっと言葉に詰まり、おしぼりを振って俺の肩を叩いた。 「あちこち口説いて歩いてるんじゃないわよ。もうすぐ結婚するでしょ? 心身ともに充実してて、肌の調子がとーってもよくて、準備で少しだけ目元が疲れてるの。わかるわ」  向こうで古都が目を丸くしていたが、俺は素直にニッコリ笑った。 「はい。いいご縁に恵まれました」  古都は両手で口を覆い、佐和を見た。佐和が表情ひとつ変えずに静かにうなずくのを見て、また俺の顔を見る。 「周防くん、嘘でしょ……?」 「本当だよ。もう双方の親にも挨拶をした」  古都は佐和の顔を見ながら、泣きそうになっている。佐和は数回まばたきをして、「ああ」と呟いた。 「心配してくれなくて大丈夫だよ。周防の結婚相手は、僕だ」  今度は古都は目を丸くして頬を紅潮させ、出そうになる悲鳴を両手で押さえた。

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