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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(87)
古都は次に目を閉じて、口許を押さえている指の隙き間から深呼吸をして、さらに胸の上に両手を重ねて、また深呼吸をした。
「おめでとうございます! どうしよう……どうしよう……驚きすぎて。展示会のトークディスカッションで『また一緒に暮らしてる』って言ってたし、今日もお揃いのバングルをしてるから、昔と変わらずに仲がいいんだとは思ってたけど。朔夜くんはずっと片思いだって言ってたから」
自分の頬を冷やすように両手で押さえ、一息にビールを飲み干し、大きな笑顔を見せた。
「本当によかった! おめでとう。やだ、泣きそう」
そう言ったときには、もう絹のような頬の上を、涙が玉になって転がっていた。
「何も、泣かなくても」
佐和は困ったように笑い、自分のポケットからハンカチを取り出したが、古都は小さく首を横に振り、自分のバッグからレースに縁取られたハンカチを取り出した。
「ウチの商品、マスカラとリキッドアイライナーは落ちないんだけど、ペンシルアイライナーは落ちるのよね」
左右の目頭と目尻を交互に押さえながら、涙で歪む口を強引に動かして笑った。
「まぁまぁ、おめでたいわねぇ! お祝いしなきゃ!」
大門氏が動き出そうとする腕を、俺はそっと手で押さえながら言った。
「ありがとうございます。でもお気持ちだけで。この件に関しては、身内だけで、静かに幸せを味わいたいと思っています。どうぞご放念ください。6月頃に結婚指輪をつけているのを見かけたら、無事に結婚したんだなと思ってください」
俺は世界中の人に自慢したいくらいだが、佐和の意向を尊重して伝えた。
大門氏は「あら、そぉお」と残念そうな顔をしたが、頷いてくれた。
「わかりました。指輪を拝見するのを楽しみにしています」
そのあいだに、古都は泣き止むかと思いきや、ハンカチを両目に押し当て、しゃくり上げて泣いていた。
「古都ちゃん、ありがとう」
まさか赤ちゃんのように抱き上げる訳にもいかず、少し身を乗り出して顔を覗き込んだ。
「……けおち……っ」
古都の言葉は唐突で、上手く聞き取れなかった。
「ん? 何て言った?」
古都は真っ赤な目で俺を見た。
「朔夜くんが、駆け落ちするって。すごく、すごく大変だったのっ。大騒ぎになって……」
またこみ上げて、古都はハンカチで顔を覆ってしまう。
「駆け落ち? 佐和が、古都ちゃんと?」
古都は首を横に振った。佐和を見たが、佐和は俺とは反対側に黒目を動かし、何も言わずにビールを飲む。
大門氏が店から冷たいおしぼりと熱いおしぼりを借りて、古都の目に交互にあてる世話を焼いた。古都はようやく深呼吸をして、「本当に大変だったんだから」と、困ったように笑う。
「朔夜くんが大学に入ってすぐ、『周防っていう外部生が、佐和くんにつきまとってる』って、馬術部の関係者のあいだで、話題になったの。卒業していた私のところまで話が聞こえて来たくらい」
「ああ、たしかに。つきまとっていると言われれば、その通りだ」
「朔夜くんはその男に毅然とした態度をとるどころか、いつも一緒にいるようになって、『スオウ』しか言わなくなってきた。さすがにこのままではよくないんじゃないかって心配し始めたらしいわ」
俺は嬉しさと照れくささで、思わず笑ってしまった。
「マジか」
もう一度佐和を見たが、佐和は俺と目を合わせず、追加で頼んだらしい冷酒を手酌で飲んでいる。
「しかも、周防くんに心酔して、とうとう会社を作るなんて言い出した! 絶対に騙されてる! って、馬術部の皆は本気で心配して、朔夜くんを説得し始めたのよ。私は仕事が忙しくて全然知らなかったけど、大学馬術部だけじゃなく、高校馬術部で一緒で別の大学に行ったメンバーも、卒業した先輩たちも、わざわざ説得に足を運んでいたらしいわ」
「いつ? 全然気づかなかったぞ、佐和」
名前を呼ばれて、さすがに佐和は口を開いた。
「部活の途中で呼ばれることが多かったかな。厩舎の隅とか、合宿所の部屋とか?」
馬場の隣、厩舎と棟続きに合宿所があった。部員たちは荷物を置いたり、着替えたり、馬に与える野菜や果物を切ったり、日常的に使っていたので、出入りを気にとめたことはなかった。
「俺が馬術部へ行って疎外感を感じていたのは、『ごきげんよう』という挨拶ができないからだと思ってた」
「挨拶なんか、どっちだって大丈夫よ」
古都は首を横に振った。
「説得すればするほど、朔夜くんは頑なになって、まるで宗教を盲信しているみたいだって。周りはますます心配したけど、溝は埋まらなかったみたい」
「何で俺に何も言わなかった?」
「さあ? 僕のプライドが高くて、周防に頼りたくなかったんじゃない?」
佐和は江戸切子の猪口に手酌で酒を注ぎ足し、俺と目を合わせなかった。
「高校馬術部の同窓会で100人くらい集まった日、全員が朔夜くんの目を覚まそうと思っていたらしいわ。私は何も知らないで会場に行ったんだけど、乾杯した直後から参加者100人相手に、朔夜くんはたった1人、孤立無援で大喧嘩よ。『佐和くんは洗脳されているんだ』、『得体の知れない人なのに、盲信するのは危ない』って言う人たちを相手に、朔夜くんは『周防はそんな男じゃない』、『周防は真面目で誠実で情熱的な努力家だ!』、『僕たちはコミュニケーションをとって互いを理解し合っているだけで、洗脳されている訳じゃない!』ってテーブルを叩いて、大きな声で怒鳴って、まくしたてて。怒号が飛び交って、コップが割れて、お皿がひっくり返って、女子は泣き出すし、阿鼻叫喚だったわ」
「佐和……」
顔を見たが、佐和は相変わらず手酌で飲んでいるだけで、何も言わなかった。
「朔夜くんは、『今までの、数々のご忠告には感謝する。でも僕は100人の友だちのために、たった1人のかけがえのない親友の手を離すつもりはない。周防がいかに素晴らしい人物か、理解したくないなら、もうそれで結構。僕は周防の手を掴んで駆け落ちするまでだ。ごきげんよう』って言い切ったの。しかも後ろで朔夜くんのシャツを引っ張って『もうやめよう、やめようよ』って泣いていた彼女に向かって、『このシャツ、周防のだから、あまり引っ張らないで』って。その手も払って会場から出て行っちゃった」
古都が肩をすくめ、佐和は声を上げて笑った。
「そんなこともあったね。古都ちゃんだけが追いかけてきてくれて、飲み直しに行ったんだ。なんで追いかけてきてくれたの?」
「凛々可の弟だもの、追いかけるわよ。『お姉ちゃんには言わないで、周防にバレるから』ってずっと口止めされてたけど、もう時効ってことにして」
古都は大きく息を吐いて笑った。
俺も一緒に息を吐いた。
「設立準備や仕事が忙しくなって、馬術部を辞めたんだとばかり思っていた。駆け落ちしていたとは」
佐和は小さく首を傾げ、江戸切子の猪口を見た。矢のように降る雨を模した矢来 紋が刻まれている。
「小学校や中学高校からの友だちに、大切な親友を否定するようなことばかり言われて、苦しかった。どうしたらいいのか悩んでいたときに、おばあ様から駆け落ちの話を聞いたんだ。誰を愛するのかを決めるのは自分だって言葉に、救われる気持ちがした。僕はおばあ様に、周防のことを理解してもらえなくて苦しいって。僕も周防と駆け落ちしちゃいたいですって言った」
両手の中に猪口を包んで、佐和は言葉を続ける。
「おばあ様は、信頼や思い出という目に見えないものも含めて、失うものがたくさんあるし、反対していた人たちは変わらず悪口を言い続ける。友だちをいっぺんになくして寂しい思いもたくさんするから、駆け落ちはしないに越したことはない。でも、最後の手段として、駆け落ちっていうやり方があるって知っておくことは、御守りになるかも知れないわって」
初めて佐和を実家へ連れて行ったとき、佐和が祖母と話しながら泣いていたのは覚えている。まさか俺のことで悩んで、駆け落ちの相談をしていたなんて。
「佐和」
佐和は笑って顔を上げた。
「僕、古都ちゃんだけじゃなく、おばあ様にも口止めしてるんだ。もう大丈夫ですって言わなきゃね」
「っていうか、古都ちゃんとばあちゃんを巻き込む前に、駆け落ちするなら、まず俺に言ってくれ」
佐和の手にある江戸切子の猪口に冷酒を注ぎながら、嘆息した。
「ヤダよ! 周防はしつこいから、そういう細かいことをいつまでも気にしそうだもん」
佐和は俺の目を見てきっぱりと言い切ってから笑い、するすると酒を飲んだ。
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