154 / 172
【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(88)
「『周防が心配して、馬術部へ帰れって言い出したら嫌だから内緒。僕は周防と一緒に会社をやりたいもん!』が本音でしょ」
古都ちゃんの指摘に、佐和はそっぽを向いた。
「うるさいなぁ。余計なことを言わないでよ。古都ちゃんのおしゃべり!」
「だって言わなきゃ、優しい周防くんが悪者みたいじゃない。朔夜くんのそういうひねくれたところ、本当に可愛くない!」
古都は、タネが透けるほど薄い衣に歯を立てて、ほどよく水分が抜けて旨味が凝縮した白身魚を頬張る。佐和も箸先の天ぷらに噛みついた。
「僕は周防だけに可愛いと思ってもらえれば、それでいいもん。古都ちゃんに媚びを売ったって、僕には何のメリットもないし!」
「はあ? 媚びを売れなんて言ってないでしょ。素直になりなさいって言ってるの! なんでそうやってひねくれた受け取り方をする訳?!」
古都はパチンと箸を置いて身を乗り出し、佐和は猪口をテーブルに置いた。
「はいはい、ストップ、ストップ! 本当にすぐケンカするんだな」
俺は審判のように両手を振って、古都と佐和を押しとどめた。等分に笑顔を向けて言い聞かせる。
「食事中は笑顔で! ありがたく美味しくいただきましょう!」
古都と佐和はため息のような深呼吸をして、食事を再開させた。
表面だけに火が通った活ホタテ、甘くてほくほくしたさつまいもと和やかに食べ進むうち、引っ越しの話題になった。
「荷物は少なかったんですが、ソファを移動するのに1日がかりでした」
「引っ越し先は低層階で、バルコニーがあるから、クレーンで吊り上げて入れることができたんだけど、運び出すのが大変だったんだよね。きちんと間口のサイズを測ってオーダーしたんですけど、ぴったりにしすぎちゃった」
俺たちの話に古都が笑う。
「引っ越しって大変よね。私、今もまだダンボールがいくつもあるの。そろそろ景色の一部に見えてきてヤバいわ」
佐和の片眉だけが上がった。
「ダンボール? なんで引っ越すときに、開梱までやってくれるサービスにしなかったの? 古都ちゃんが片づけるなんて無理じゃん!」
古都の顔から笑みが消える。
「だって勝手にあちこちに押し込まれたら、移動するの大変だもの。リビングの壁紙は貼りかえたかったし!」
「先に貼りかえてから、引っ越せばよかっただろ」
「その時間がなかったのよ! あの量の荷物を私ひとりで梱包しただけでも褒めてよね!」
「何を褒めるの? 普通は一人暮らしの引っ越しなんて、自分ひとりでやるんだよ。古都ちゃんは服と靴とバッグの量が尋常じゃないんだから、入ってすぐの一番広い部屋をクローゼットにして、ハンガーラックをたくさん置いて、ワイヤーラックも置いて、全部並べるの! 衣更えなんて高望みはしちゃダメだし、洗濯物は、基本的に宅配クリーニングを使う! クリーニングに出したくない小物類は、これから洗う物と、洗い終わった物だけに分ける! 種類やデザインごとに引き出しに片づけようなんて考えるのも高望みだ。どうせ洗濯物を取り込んだって、たんすにしまうのが面倒で、ずっとソファの上に山積みにして、着るときにその中から引っ張り出すんだから、カゴに入れておくだけでも違うだろ」
「やだ、うるさーい! そんなに指示するなら、朔夜くんが気の済むようにやればいいでしょ」
「はあ? 何で別れた女の部屋の片づけを、僕がやらなきゃいけないの? 片づけをしてくれるサービスに依頼しなよ。僕は、絶っっっ対に手伝わないからねっっっ!」
「はあ? 手も出さない、カネも出さないなら、口も出さないでよ!」
古都がまたパチンと音を立てて箸を置き、佐和が猪口を置いて、俺は審判のように両手を振った。
「はいはい。ケンカしない、ケンカしない……ってか、本当にマジですぐにケンカするんだな。よくつきあってたなぁ?」
俺は本気で呆れて、同時にそっぽを向くふたりの顔を見比べた。
「何でも言い合える関係にも、ほどがあるわよね。友だちだったらいいんでしょうけど、元カレだと思うと苛立ちしか感じないわ」
「僕もそう思うよ。古都ちゃんは友だちにするにはいいけど、恋愛は絶対に無理!」
互いに犬歯を剥き出しにしているふたりのあいだに、大門氏の柔らかな声が流れる。
「遠慮なく言い合える友だちって、貴重だと思うわよ。女同士は上っ面だけ同調して、本音を言い合える友だちって案外少ないわ」
ふたりはその言葉に頷いた。いつだったか、佐和が女性とのキスやセックスに積極的になれないことをコンプレックスに感じると言ったうえで、「彼女とも、セックスがなければ、もっと仲のいい友だちになれるのにって思うんだ」と言っていたのを思い出す。
そのとき付き合っていた相手が古都なのかどうかわからないが、古都に対しても同じコンプレックスは抱いていただろうし、同じように感じていたと思う。
友だちになればいいのに。恋愛したあとのふたりなら、誰よりもわかりあえる親友になれるのではないだろうか。
コースの最後にかき揚げの天茶と、季節の旨みをたっぷり蓄えたフルーツを食べて店を出た。
「ジジイはこれにて。お先に失礼致します」
大門氏は手を振って帰って行き、佐和も車の助手席に向かって歩いたが、俺はヘッドロックをかまして動きを封じて、古都ちゃんに声を掛けた。
「古都ちゃん。佐和がごちそうするから、佐和と一緒にもう一杯だけ飲んでやって」
「え? いらないよ、そんなの」
そう答えたのは佐和で、俺は佐和の口に耳をつける。
「先に結婚しちゃってゴメンねって言いたいんじゃなかった? 謝るふりで、俺のことをたくさんのろけてきて」
佐和はくすぐったそうに首をすくめて笑い、頷いた。
「周防くんは?」
「俺は仕事。太宰さんに1つ仕事を投げたら、3つは投げ返される仕組みなんだ」
大げさに顔をしかめて見せて、佐和の肩を叩いた。
「あとで迎えに来る」
一旦離れかけた佐和の手首を掴んで引き寄せ、もう一度耳に口をつけた。
「浮気も、心変わりもするなよ? エッチもなし!」
「しないよ、そんなこと!」
声を立てて笑う佐和と一緒になって笑い、今度こそ古都に向かって佐和を押し出した。
車に乗った俺は、並んで歩くふたりを追い抜いて昭和通りに出た。左折して北上し、上野駅前を通り過ぎてすぐの交差点を右折し、小さなビルや家が並ぶ細い通り沿いのパーキングに車を停めた。さらに細い路地へ迷い込んだところにオレンジ色の明かりを灯すブックカフェがある。
佐和と何か一緒にやりたいと思い始めたばかりの頃、俺はこんなブックカフェを作れたらいいと思っていた。ひとりで夢を見ていた照れくささで、ずっと佐和に打ち明けるタイミングを逃していたが、そろそろ話してもいいかもしれない。
歪んだガラスがはめ込まれた木製の古い引き戸を開けたとき、居場所を検索されて、俺も検索し返した。昭和通り沿いのショットバーに星印があるのを見る。昨日、激しく嘔吐し、家族のイラストを見て苦しんでいた佐和が、古都と打ち解けて話せることを願いつつ、バックライトを消した。
ブックカフェは町工場だった頃の姿を色濃く残しつつ、清潔にリノベーションされ、廃材を用いた家具と、瑞々しい観葉植物をたくさん置いている。
案内された席に座り、オリジナルブレンドをオーダーしてから、壁一面の本棚の前に立った。
俺は自分の気持ちを占うように背表紙を見渡して、谷川俊太郎の詩集を手にする。
「お、案外平気」
佐和を元カノと一緒に飲みに行かせる余裕を見せて、強がって、もっと嫉妬と不安に駆られているかと思ったが、谷川俊太郎を読みたいと思う俺のメンタルはフラットだ。
椅子に座り、背もたれに寄り掛かって、手の上に開いた世界へ身を投じる。
谷川俊太郎の詩は、道端に咲く野花のようだと思う。見過ごしそうな当たり前でさり気ないところに、美しく強く在り、土の匂いと青い匂いが鼻腔を突き刺す。中央の蕊には命の営みがあり、種は離れこぼれて、枯れて乾いた身体は軽く倒れてゆっくり土に染み込んでいく。
とてもいい酒を飲んだときのように身も心も満たされて、俺は満足してコーヒーを飲んだ。
ともだちにシェアしよう!