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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(89)
『ことばあそびうた』を読み、言葉を口の中で転がして遊んでいたら、スマホが鳴動した。
「もう解散?」
あっという間に感じたのは、俺が読書に没頭していたからで、2時間近くが経過している。
俺は読んだ本を片づけ、コーヒー代と一緒に、レジ脇で売られていた谷川俊太郎のエッセイを買って店を出た。
指定された通り、紅や高尾の本社前まで迎えに行くと、社名が書かれたドアの前の段差に、古都と佐和が並んで座っていた。膝を抱えるふたりの姿が、小学校からの帰り道みたいで微笑ましい。
俺に気づいた佐和は笑顔で立ち上がったが、少しよろめいた。古都が笑いながら腕を掴んで支えていて、俺は車を降りて佐和の前に立つ。
佐和は満面の笑みを浮かべ、俺に向けて両手を広げた。
「わーい! 周防っ! 会いたかったーん! 愛してるぅ!」
底抜けに明るい声を上げ、両手で俺の頬を挟むと、何のためらいもなく唇を重ねてくる。
驚いて一歩後ろへ引きそうになったが、否定的な態度をとって、せっかくキスしてくれる佐和に恥をかかせたくない。
腹と足に力を込めて踏ん張り、俺も愛してるよと目を細め、余裕のある態度でキスを受けて、ふらつく佐和の肩を抱く。
「ごめん、古都ちゃん。世話をかけた」
古都に謝ると、佐和も一緒になって「ごめんねぇ」と言い、俺の腰に両腕を巻きつけ、肩に頭を乗せながらしゃべる。
「古都ちゃん、ありがとね。また飲もっ! ウチにも遊びに来て。周防が作る餃子とミートボールはすっごく美味しいから、一緒に食べよっ! おやすみなさーい!」
笑顔で手を振る佐和を助手席に落ち着かせてドアを閉め、あらためて古都を見る。
「マジで遊びに来て。スウェーデン風ミートボールと、母親秘伝の焼き餃子をご馳走する」
「社交辞令で終わらせないわよ?」
冗談半分に笑う古都に、俺はQRコードを表示させたスマホを差し出した。
「もちろん。俺たちと友だちになって」
アカウントを交換し、見送ろうとする古都にドアを手で示す。
「もう暗い時間だから、先に部屋に入ったほうがいい。今日はどうもありがとう」
古都は素直にドアに手を掛けてから、振り返って俺の前に戻ってきた。助手席に座った佐和がラジオから流れてくる曲に合わせて頭を振り、何か楽しそうに歌っている姿を見て言う。
「ええと、『第1進化』? 朔夜くんが、周防くんに、よくそう言われるって」
「ああ。酔っ払って饒舌になるのが、佐和の第1進化」
俺の肯定に古都は少し笑ってから、顔を上げた。
「朔夜くんが第1進化して、忘れているかも知れないから、周防くんにも同じ事を言っていいかな」
「うん?」
輪廓のくっきりした目で、まっすぐに俺を見る。
「私、本当に大丈夫なの。朔夜くんにずいぶん心配をかけていたみたいで、さっき話を聞いてびっくりしちゃった。何も後悔していないし、毎日がとても充実してる。もし酔いが覚めたときに朔夜くんが忘れていたら、そう教えてあげてくれる?」
「わかった。俺も佐和も、いつでも古都ちゃんの幸せを願ってる」
「ありがとう。それとね……私と朔夜くんは、いつもケンカして電話を切ったり、途中でタクシーを降りたりするだけで、ちゃんとした別れ話ってしたことなかったの。でも、一昨年の6月だけは違って、ホテルのラウンジに呼び出されたわ」
左右の口角を上げていながら、少し悲しそうな顔で俺を見た。
「『僕はずっと周防を好きだと思ってたけど、やっぱり本当に好きだってことに気づいちゃったんだ。親友に恋愛感情を抱くなんて、今はまだ自分でも自分の気持ちを受け止めきれなくて、とても戸惑ってる。しかも周防はお姉ちゃんのことが好きで、男の僕を好きになる可能性はゼロだ。絶望的だよ。でも僕は死ぬまで周防以外の人は好きにならない、それだけは確信が持てるんだ。だから僕は死ぬまで周防に片思いして生きていく。ごめんなさい』って、あんなに朔夜くんが泣く姿を見たのは初めてだった」
「そんなことを言っていたのか」
当時の佐和の心境を思うと切なくて、思わず自分の胸を手で押さえた。古都は左右の口角をしっかり上げ、目を細めた。
「だから今日は、とても嬉しかった。朔夜くんによかったねって言ったら、たくさん周防くんのことをのろけてくれて、私まで幸せな気持ちになっちゃった。お願いだから、ずっと朔夜くんを大切にしてあげて」
「もちろん。生涯をかけて幸せにする」
心の底から誓った俺に、古都は美しい笑顔を見せて「おやすみなさい」とビルの中へ入って行った。
車の中では、佐和が読書していた。俺がさっき買ったばかりのエッセイだ。
「谷川俊太郎は苦手じゃなかったのか」
「好きな人が好きなものって、好きになっちゃうよねーっ」
鈴が転がるような声を立てて笑っている佐和の腕を引き寄せ、軽いキスを交わしてから、車を発進させた。
「最近、焼き魚とレバーもだいぶ食べられるようになってきたよな」
「うん。周防が『美味しいぞ。あーん』って食べさせてくれるから、食べちゃう! 食べたらごほうびにチューしてくれるしーっ!」
「俺も佐和に食べさせられるうちに、茄子は好物になった」
「愛の力だねっ! 僕たちラブラブっ! ラブビーム!」
両手でハート型を作って身体の前に突き出して笑っている。酒を飲んでいるとはいえ、ここまで明るく話して笑うのは珍しい。一緒に笑いながら訊いた。
「古都ちゃんと、楽しい酒を飲めたのか?」
「うん! 周防、ありがとう。僕のマリッジブルーは、もう平気。全部吹き飛んだ! 安心して僕のところへお嫁に来てっ!」
佐和は両手を広げて笑い転げる。
「それはよかった。安心して嫁に行こう」
車が赤信号で停止するなり、佐和は俺の頬にキスをして、振り向いた俺と至近距離で見つめ合った。
俺はサイドブレーキをロックして、佐和の頬へ指を滑らせ、指先でくすぐる。
佐和は首をすくめて笑ったが、直後に口を手で覆った。
「う……っ」
助手席前のグローブボックスを開け、凝固剤入りのビニール袋を掴み出して口にあてる。
「相変わらず、いきなり顔が青くなるなぁ」
学生時代からずっと変わらない姿に、愛おしさが込み上げて笑ってしまう。
「ごめ……っ」
「全然平気。お互い様だろ。我慢しないで全部吐けよ」
すぐ近くにあったコンビニの駐車場に車を停め、ミネラルウォーターとタオル、カップ氷を買って、佐和のもとへ戻る。
佐和は車のドアを開け放って換気しながら、その傍らに背筋を伸ばして立っていた。
「落ち着いたか?」
「うん。ごめんね。ご迷惑をおかけしました」
話し方も落ち着いていて、まっすぐな目で俺を見た。
俺はミネラルウォーターとタオルを渡しながら、首を振る。
「こんなのは迷惑のうちに入らない。もっと酔っ払っていたら、車でビニールののれんをくぐろうかと思ってた」
俺の冗談に、ミネラルウォーターを飲んでいた佐和が笑う。
「そういえば僕たち、本来の目的でラブホに行ったことないね」
「そうだな」
行先を決めずに旅に出て、ラブホテルに泊まったことは何度もあるが、本来の目的で行ったことはない。
「ねぇ、行ってみない?」
佐和はラブホテル専門の検索サイトを表示して見せた。
「名案だ。駐車場つきなら、どこでも佐和の好きなところでいい」
「えー! 周防の意地悪っ! そんな冷たいこと言わないで、一緒にちょっと照れながら、イチャイチャして探そうよーぅ」
まだ酒は残っているらしい。これは佐和の『第2進化』だと理解した。
嘔吐したあとの佐和は完全に酔いが覚めるか、『第2進化』を遂げるかの2パターンだ。
『第2進化』は普通の顔色で、相手の目を見てきちんと受け答えをして、まっすぐ歩き、風呂にもちゃんと入るのだが、頭の芯には酒が残っている。本人いわく、頭の中にジャイロのような酩酊感が残り、気を張ってバランスをとっているらしい。
こういうときの佐和は、すべてをきちんとこなすが、ベッドへ倒れ込んだ瞬間に眠りに落ちてしまう。
だから今夜はベッドの上で何も起こらないだろうが、久しぶりに佐和とラブホで寝るのも悪くない。
車に戻って一緒にスマホをのぞき込む。
「周防は、どんな部屋がお好みかな?」
「んー。本当に佐和の好みでいいけど。どうせなら、めちゃくちゃラブホっぽいラブホがいい」
「ベッドが回転したり、メリーゴーラウンドがあったり?」
佐和が笑って、記憶が蘇る。
「いつだっけ、そんなラブホに泊まったな」
「3回目の決算のとき。決算前にふたりで帳簿チェックして、光島さんのところに持って行ったあとだよ。『光島さんがチェックしてるあいだに旅行しよう!』って、コイントスで東名高速を走ろうって決めたとき」
「思い出した。ワンガレージ式のところで、カーテンを閉めに来たおじさんに『古いポルシェに乗ってるなぁ』って話しかけられて、しばらくしゃべった。エリ乗りで、走行会に行ってるって言ってたな」
「そうそう。ホテルの裏に停めてある自分の車も見せてくれて、会話を盛り上げた周防のことを気に入って『ウチは男同士はお断りなんだけど、きれいに使ってくれるならいいよ』って言われたのを覚えてる。周防も僕もエアシューターで会計するのが初めてで、何度も説明書きを読んでから、せーのってボタンを押したよね」
思い出したことを話しながら、佐和は条件を入力して候補を絞り込んでいく。
「ねぇ周防、見て! 鏡の間だって! 壁も天井も鏡張り! ザ・ラブホテルって感じじゃない?」
佐和は検索結果を指さし、俺が頷くと予約ボタンを押した。
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