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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(91)

 バックヤードから出てきたくまちゃんを、佐和は両手を広げて迎え、抱き締める。  俺は佐和の腕に抱かれるくまちゃんを一瞥し、ちょっと鼻から息を吸っただけで、すぐに目を逸らした。しかし、佐和は俺の顔をちらっと見て笑い、くまちゃんに話しかける。 「抱き締めても、周防がヤキモチを妬かないように、君の名前は今からサネオミだよ」  くまちゃん改めサネオミは、佐和の言葉にくたっと頷いた。  下りのエスカレーターに乗り、俺はスマホを取り出してレンズを向ける。  佐和はサネオミと頬をくっつけて、満面の笑みを浮かべた。涙袋がふっくらしていて、嬉しくなる。  この喜びをSNSに投稿し、全世界に向けて自慢したいと思った。が、こんな可愛い笑顔で佐和朔夜のパブリックイメージを崩して、皆が佐和に親近感を抱いたら困る。サネオミを抱き締めた笑顔は俺だけのもの。そう決めて自分のフォルダに大切にしまい込んだ。  駐車場までたどり着くと、サネオミは布と綿でできた身体の柔軟性を活かして、器用に車の後部座席に落ち着いた。シートベルトまで締めてもらったので、背筋を伸ばして行儀よく座っている。バックミラーを見るたびに半円形の耳が映って、俺まで楽しい気持ちだった。  ラブホテルの駐車場ののれんは、ボンネットを撫でる。向こう側はまったく見通せない。  俺はハンドルを抱え、少し身を乗り出して目視確認しつつ、周辺確認モニターの画面も見つつ、ブレーキペダルを緩めて徐行した。  ばさっ! と音を立てて、のれんがフロントガラスに覆い被さった瞬間、佐和は素直に歓声を上げて喜んだ。 「わーい!」 「楽しいか?」 「うん。ジェットコースターで落下して、水しぶきを浴びるときみたい!」 「なるほど。言いたいことはわかる気がする」  内部は駐車スペース1台分ずつ仕切りがあって、すでに車が停まっているスペースは、プライバシー保護のためにカーテンで覆われている。  カーテンが開いている空きスペースに車を停めた。佐和は必要な荷物を後部座席から降ろしつつ、ぽふぽふとサネオミの頭を撫でる。 「ここで待っててね。サネオミはぬいぐるみだから、いい子で座っていられるよね」  おでこにキスまでしてもらって、たまに留守番を食らうときの俺よりも待遇がいい。  顔に出したつもりはないが、佐和はにっこり笑った。 「周防には、あとでいっぱいしてあげるからね」  佐和は俺の左腕に両腕を絡めて、つま先を蹴り上げるように歩く。  俺は左手をトラウザーズのポケットに突っ込んで、佐和に腕を差し出しながら、堂々と歩いた。  手をつないで歩くことさえ稀なのに、腕を組んで歩くなんて、おそらく初めてだ。こんなに甘えてくれるなら、いくらでも酔っ払いでいてくれていい。ばあちゃんが漬けたカリン酒の瓶の中に、一緒に漬け込んでおきたい。  チェックインをしてたどり着いた部屋は、フランスのヴェルサイユ宮殿をイメージしたものらしい。大きなシャンデリアが煌めき、壁一面に大小さまざまな大きさと形の鏡が飾られている。  調度品は白と金色で統一され、ファブリックは美しい花模様で、床は白い大理石が敷き詰められていた。 「鏡の間とマリー・アントワネットの寝室を混ぜたみたいな部屋だな」  ヨーロッパを旅行するなら秋がいいと言われ、遅すぎる夏休みをとって、佐和とふたりで旅行した思い出をたどる。  パリ市内のアパルトマンに滞在し、地元のスーパーマーケットやマルシェで食材や惣菜を買って、自炊しながら観光を楽しんだ。そのうちの1日を使って、レンタカーを駆り、ヴェルサイユ宮殿へ行った。  宮殿は豪華絢爛、鏡の間は外光を反射して明るかった。夜はシャンデリアの光を増幅させて、さぞ煌びやかだっただろうと想像した。  庭園は自然を活かすのではなく、自然すらも手中に収めてコントロールする考え方で、植栽は曲線も直線もすべて人工的に刈り込まれていたのが印象的だった。  そうかと思えば、庭の一部には山村を模したエリアもある。  常に他人の目に晒され、出産すらも公開される暮らしに息が詰まって、牧歌的な生活を懐かしむマリー・アントワネットのために、庭の一部を田舎の村に仕立てた。藁ぶきの古びた農家が並び、水車小屋があり、家畜が飼われ、緑の草むらの間を川が流れる、のどかな風景が作られていた。  その様子はさながらテーマパークだ。この山村まで再現するような贅沢が民衆の怒りを買った訳だが、ここで王妃が村娘を演じて遊んでいたと聞いたら、佐和が 「マリー・アントワネットもこんなテーマパークじゃなく、暴れん坊将軍みたいに実際の街へ出て成敗していれば、ギロチンの露と消えなくてもよかったのにね」 と言っていて、なるほどと思い、その発想の面白さも大好きだなぁと思った。ああ、わかってる。俺は佐和のすべてが大好きなだけだ。何が悪い?  噂に聞くヴェルサイユ宮殿を見学し、満足して帰路についた。パリ市内を目指し、ブローニュの森に沿って走る。  森の木々は見渡す限り黄葉し、陽射しを受けて明るく光っていた。 「秋に旅行しろと言われた理由がわかる」 「うん。日本の紅葉とは別物だね」  そんな会話をしながら走っていたが、太陽が傾き、夕陽の色になった瞬間、森全体が蜂蜜色に光り輝いた。 「うわあ! ねぇ、周防。どこかに車を停められない?」  ハザードランプを焚いて路肩に車を停め、どちらからともなく車を降りた。  太陽の光が蜂蜜になって、木の葉1枚1枚を濡らしたような輝き方だった。  爪先で探る冷たいシーツのような心地よい空気に包まれながら、ふたりで並んで車に寄りかかり、言葉も交わさずにその景色を見つめ続けた。  さらに陽が傾き、東の空から夜がやってくると、黄葉はまた黄色に戻った。俺たちは魔法から覚めたように車に乗って、走り始めた。  写真も撮らなかったし、フランス滞在中に同じ輝きは二度と見ることができなくて、幻だったのかも知れない。でも、あの瞬間を見たのは俺だけじゃない。 「僕、ヴェルサイユ宮殿っていうと、何よりも帰り道の蜂蜜色の景色を思い出しちゃう」  佐和の言葉に、俺も同意する。 「ああ。あの旅もいろいろ楽しかったけど、ハイライトは蜂蜜色の森を見たこと」 「ん。日本の紅葉とはひはふ(違う)はいはひっふは(ダイナミックな)うふふひははっはほへ(美しさだったよね)」  突然、言葉が不明瞭になったと思ったら、佐和は歯を磨いていた。そういう自由なところも愛してるぞ!  口の中で歯ブラシを動かしながら、佐和は部屋の中を歩き回る。トイレの水とシャワーの湯がきちんと出ることを確認し、スーツを脱いでクローゼットに収めた。  俺もスーツを脱いで、ワイシャツと下着と靴下だけの姿で歯を磨きながら、部屋を歩き回る。  都心のラブホテルにしては、かなり広い部屋だったが、天蓋つきのダブルベッドは、大きな鏡に押しつけるように、隅っこに置かれていた。  先に歯磨きを終えた佐和が、タオルで口を拭きながら首を傾げる。 「なんであんな隅っこにベッドを置くのかな? マリー・アントワネットの寝室を気取るなら、真ん中に置いてシンメトリーに調度品を配置したほうが、それっぽく見えるのにね」 「ああ」  相づちを打って見上げた天井には、安くて美味しいイタリアンファミリーレストランの壁画でよく見る『ヴィーナスの誕生』や『受胎告知』が描かれていて、もはやフランスの作品ですらない。 「同じ受胎告知なら、オルセー美術館にだって有名な絵があるんだから、そっちを使えばいいのにね。受胎を望まないカップルにとっては、どっちにせよ嬉しくないだろうけど」  セックスの結果の妊娠や出産を暗示して、この天井画なのかと思うと、確かに微妙なチョイスだと思う。 「僕、『お先に』してもいい?」 「もひほん(もちろん)」  頷いて口をすすぎ、先に身体を洗う佐和を残してバスルームを出た。  テレビをつければ、当たり前のように男女の絡みが映し出される。  生々しい息づかいや、獣じみた嬌声、規則正しくぶつかりあう肉の音、そして汗ばんだ肌や充血した性器を互いに舐めあう姿をぼんやりと見た。  佐和とセックスしていたって、ひとり気ままに欲を解消することはある。そのときに動画を手がかりにすることもよくあるが、そういえば男女のセックスはあまり見なくなったなと思う。最近は、男同士の行為を見ることが多い。  自分のセクシャリティが少しずつ変化しているのか、単に佐和とセックスするようになって、男女の絡みにリアリティを感じなくなったのか。  佐和は女性とのセックスに違和感を感じ続けていて、ゲイだと自覚したときはショックを受けたらしい。  だが、俺にはあまりそういうショックはない。  佐和が女役で、俺の振る舞いには変化がないからかも知れないし、佐和を好きすぎて悩む余地がないのかも知れない。  初めて身体を交わした日、佐和はロッカーキーの位置で女役であると主張していたが、彼はどんな経緯で受け入れる側を選ぶに至ったのだろう。  婚約者の過去のセックスなんて、想像しても面白いことは何もない。それでも気になるのは、その過程を佐和がひとりで悩んで決めてしまったからだと思う。  俺に一言打ち明けてくれたら、佐和を有料発展場なんかへは行かせずに、俺が一緒に考えて、一緒に試行錯誤して、一緒に答えを探したのに。 「俺が相手をするから、ゲイかどうか試してみたらって、言いたかったな」  過去に誰とどんなセックスをしていたって、今から死ぬまで俺とセックスしてくれたらいい。俺のペニスのサイズがわかるくらいいろんなサイズを知っていたって、今は俺のものなんだから。 「今は俺のものなんだから、気にしない」  口に出して自分に言い聞かせているあたり、俺は気にしているんだろうなぁ。 「俺だって、佐和のことを言えないくらい、いろんな女と関係してるのに」  恋人にはならないし、口止めもしない。事実であれば、その通りと頷くだけだ。  佐和が「え?」という形に口を開けたまま 絶句するくらいのことは何度もやらかしている。  女性ミュージシャンとのデート風景を週刊誌に書き立てられて、ファンから比喩でなく本当にカミソリが送られてきたり、マザーズ上場直前にセクシー女優との旅行が記事になって光島にめちゃくちゃ怒られたり、売り出し中のグラビアアイドルに売名目的でSNSにベッド写真を流出させられたりしている俺のほうが、よっぽど始末が悪い。 「そういう自分を棚に上げて騒ぐなよ、周防眞臣」  天井の『受胎告知』を見上げて息を吐き、忘れていたコールタールが小さく波立つのを感じていた。

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