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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(92)

「周防、お待たせー!」  明るい声に、俺は起き上がって衣類を脱ぎ、バスルームへ足を踏み入れた。  佐和は頭からタオルをかぶり、生まれたままの姿で、広い洗い場にしゃがみこんでいる。天使の翼が見えそうな肩甲骨と、尾てい骨まで続く背骨の連なりが美しい。 「僕、まだ準備してるから、周防はシャワーを浴びてて。何か、ローションプレイって難しいかも」  ダブルサイズのエアマットを前に、大きな洗面器と業務用ローションのボトルを足許に置いて、スマホを操作していた。 「何を調べてるんだ?」  俺はシャワーの栓をひねって頭を突っ込み、頭を洗いながら質問した。 「ローションプレイのやり方! ローションを塗りたくるんじゃなくて、ローションとボディソープを混ぜて作った泡を使うって書いたサイトもあって、情報が交錯中」 「ボディソープを混ぜた泡は、ソープランドの『泡踊り』で使うやつじゃないか?」 「アワオドリ?」  佐和は両手を頭上に振り上げ、ふわふわと揺らしている。言いたいことは何となくわかるが、そのアワオドリではない。 「客の身体を洗うのも兼ねたプレイだ」  俺はバスタブに湯を張って、佐和をその中へ入れ、ローションのボトルも投げ込んだ。 「ローション風呂?」  佐和が蓋を開けようとしたので、慌てて制した。 「違う。温めているだけ。業務用のラブローションを2リットルもそこに溶いたら、足を滑らせて溺死する」  両肩に手を置いて、バスタブの底に尻をつけて座らせてから、銀色のビニール製マットを壁に立てかけて、熱いシャワーの湯をまんべんなくかける。 「掃除してるの?」 「身体が冷えないように温めてる。マットの中の空気が膨張して、弾力もよくなる」 「へえ。周防、詳しいね」 「バイト時代にとった杵柄(きねづか)。ソープの黒服は期間が短かった割に、いろいろ教わったし、新人に教える係もやった」 「周防って、どこに行ってもすぐに出世するね」 「自分に合った環境へ行けば、勘所を掴むのも早いよな」  洗面器に熱い湯を入れて、ローションを少しずつ足しながら、両手を交互に手繰るように素早く動かして混ぜていく。ボディソープを入れて泡立てるほうが手っ取り早いが、口や舌を使うプレイはできなくなる。佐和を舐めたい一心でローションだけで泡立てた。  俺の手つきを見ながら、佐和は静かに言う。 「周防は今も、僕が死んだら、会社は整理して、夜の世界へ戻ろうって思ってる?」  俺はしっかり首を横に振った。 「会社を続ける。そのために与えられた代表権だ」  ふたりで一緒に会社を作り、株も役員報酬も1円単位までこだわって同額にしているのに、俺だけが代表取締役として登記されている。それは俺に覚悟が足りなかったからだ。  会社を作る準備を進めていた頃、俺たちは慣れない実務のひとつひとつが面白く、あらゆることに新鮮さを感じながら、思いつく限りの夢を語り合っていた。  佐和が唐突に問いを口にしたのは、1日の終わり、明かりを消した真夜中のベッドの上で、佐和の頭の重みと、洗濯を繰り返したオーガニックコットンのガーゼケットみたいな匂いを左肩に感じて、安らいでいるときだった。 「明日の朝、僕が死んでいたら、周防はどうする?」  唐突な問いかけに、佐和の温もりが急に遠のいて、背筋が冷えるような気がした。 「俺も死ぬ」 「はあ? 会社はどうするのっ?」  腋窩に鼻先を突っ込んでいた佐和が顔を上げ、声をひっくり返した。俺は思わず唇を尖らせ、拗ねた声を出した。 「じゃあ、会社を整理して、夜職(よるしょく)に戻る」 「えー。会社、やめちゃうの? 僕のぶんまで頑張ろうって言ってくれないのぉ?」  俺の首筋に額を擦りつけながら、佐和の声は不満全開だ。 「佐和がいないSSスラストなんて考えられない。会社をきちんと整理したら、俺も死んで佐和のところへ行きたい」 「そんなところでロマンチストを発揮しないでよ。僕はひとりでもちゃんとやるよ。周防のぶんまで、頑張るよ」  俺は何も言えなかった。佐和のことが大好きすぎて、佐和が死んだあとのことなんて怖くて考えられなくて、ただ佐和をぎゅっと抱き締めた。 「死なないでくれ、佐和」 「僕は健康だし、百年くらい死ぬ予定はないけどさ」  佐和は俺を抱き締め返し、俺の気持ちが落ち着くまで静かにしていたが、身体の緊張が緩むと、指先で俺の頬に貼りついていた髪を剥がしながら言った。 「ねぇ、周防。会社の代表権は周防がひとりで持つことにしよう。代表取締役社長として、頑張って。万が一僕が明日死んじゃっても、周防は代表だから、死なないで頑張って。もし周防が先に死んじゃったら、僕が代表権をもらって頑張るから。ね?」  そんな経緯があって、代表権は俺だけが持っている。  今だって、佐和がいない人生なんて想像できない。でも、10年前と違って、今もし佐和に万が一のことがあったとしても、俺はSSスラストの代表取締役として、膝に力を入れて踏ん張って、いろんなことを頑張って続けていくだろう。  ローションを泡立てた洗面器もバスタブに浮かべて湯煎して、シャワーの湯で温めたマットを床に敷く。頭をのせる部分と、洗い場に向かう床の上にはバスタオルを敷いて、滑り止めにした。 「うわあ、とろとろ」  佐和が洗面器に指を突っ込んで喜んでいる間に思い出して、ガーゼも準備した。  敷いた銀色のマットの上に、洗面器の中のローションを両手ですくって撒く。腹這いになり、マットの溝にロッククライミングのように手を掛けて、腕の力だけで身体をコントロールして、全身でのの字を書くようにして、ローションを塗り広げた。 「周防、面白そうなことしてるね!」 「佐和も遊ぶか? ローションで遊ぶあいだは、絶対に立ちあがるなよ。転倒して、下手したら大きな怪我につながる」  俺がマットの上で踵を立て、膝を割った正座をして安定していたからか、佐和は簡単に頷き、マットに乗り上がる。この反応は、わかっていないなと支える準備をしていた俺の腕の中で、案の定佐和はあっさり滑って転んだ。 「うわっ! え、えっ? どうしようっ?」  全身からとろとろと透き通るローションを滴らせつつ、佐和は溺れるように両手足をばたつかせた。体勢を立て直そうと力を入れるポイントが片っ端から滑るので、慌てるほど状況は悪化する。  俺はバスタオルをマットに敷いて、佐和の両脇に手を差し込んで引き上げた。滑りがいいから、自分と同じ身長の男でも簡単に移動できる。 「落ち着いて。タオルの上でゆっくりうつ伏せになって、枕の部分に頭を乗せて」  手助けをしてようやく佐和はマットの上にうつ伏せになって落ち着いた。 「こんなに滑っちゃうなんて思わなかった」  楽しそうに笑い始めた佐和の背中へ、両手でローションを垂らし、塗り広げる。 「うわぁ、あったかくて、気持ちいい!」  むくみやすい身体の末端から中心に向け、全身をゆっくりマッサージする。佐和は特に目を酷使するから、首や肩、背中、腰は特に圧を掛けて揉みほぐした。 「ソープランドって、いいところなんだね」 「いいところかどうかは、明言できないけどな。独特の文化があるとは思う。高級店は駅と店のあいだを黒塗りの車で送迎したり、入口では黒服が並んで一斉に頭を下げて迎えたり。今はあまりやらないらしいけれど、俺がバイトしていた店は、当時はまだ、担当の泡姫がランジェリー姿でエレベーターの前に正座して、床に手をついて客を迎えていた。お大尽のように客をもてなす」 「一種のテーマパークって感じだね」 「その通りだと思う。その世界観を理解して、上手く遊べるかどうかは、本人次第」 「スタッフのやる気の引き出し方、イズムの作り方や伝播の仕方が上手いなぁって観察してるのは、遊び方が下手な客だよね。僕のことだけど」 「楽しみ方は人それぞれだからな。佐和は俺のやる気を引き出すのが上手い」  自分の胸や腹にもローションを塗り、佐和の背中に覆い被さる。体重が掛からないように腕や足に重さを分散しつつ、そっと佐和の背中へ自分の身体を滑らせた。 「わあっ、気持ちいい!」  佐和は笑い声を上げていたが、次第に沈黙し、目を閉じて、甘い息を吐くようになってきた。 「気持ちいい?」  頬にキスをして訊ねたら、佐和は素直に頷いた。 「ん。あったかくて、ぬるぬる。摩擦の不快感が全然なくて、愛撫される気持ちよさだけがある感じ。全身で全身を愛撫されるって、すっごく幸せ」 「愛してるぞ、佐和」 「僕も愛してるよ、周防」  唇を触れ合わせ、温かく柔らかな感触を味わった。佐和の舌がぬるりと入り込んできて、俺の舌を絡めとる。ぎゅっと絞るように舌を吸われ、全身に痺れるような快感が広がった。  俺の身体の下で佐和は仰向けになり、手につけたローションで俺の身体を撫でる。 「もっといっぱい、気持ちいいことしよ?」  薔薇の花が開くような笑顔を向けられて、俺は全力で頷いた。

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