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【番外編】6558 Archive 1993 -White-(1/4)

 2017年の春、周防は、桜の花を追うように全国を巡っていた。  よく大物ミュージシャンが全国ツアーのプロモーションで、 「最近は大都市ツアーばかりでしたが、今回は今までなかなか行けなかった会場も丁寧に回りたい、全国隅々まで自分たちの思いと音楽を届けに行きたいと思います」 なんてインタビューに答えていたりするけれど、周防の仕事にもそういう巡り合わせがやってきて、またたく間にスケジュールが決まった。  初めて訪れる場所がほとんどで勝手が分からないから、担当部署と秘書室のメンバーが交替で、各現場に先回りして準備を整え、周防を待ち構え、仕事に同行して、次の現場へ送り出すという、リレー方式を採った。  ほかのメンバーたちは、数日ごとに周防の顔を見て帰ってくるが、周防自身は90日間も不在のままだ。  決算も重なる時期に、90日間も社長が不在で大丈夫なのか。僕は初めてのことに不安を覚えたし、周防だって少しは心配していたはずだ。  だからと言って、会社のトップがそうやすやすと動揺を見せる訳にはいかない。僕たちは互いに何も言わず、平気な顔を貫いた。  ただ、出張に出かける前日、夜食のお茶漬けを食べながら、僕たちのあいだで、ちょっとした会話はあった。 「俺たちが90日間も離れるなんて、初めてじゃないか?」 「そうだね。出会う前はずっと離れてたけど」  僕が少しひねくれた言い方をしても、周防は自分のロマンチックで巻き返してくる。 「出会う前だって、俺と佐和の小指は赤い糸でずっと結ばれていたし、これからも結ばれっぱなしだけどな。運命の相手と離れて過ごすなんて寂しいって、素直に言っていいぞ」 「僕は全然平気。心配しないで」  周防を安心させたくて笑顔で力強く頷いたのに、周防は唇を尖らせる。 「その返事が寂しい。『大好きな周防と90日も離れるなんて、めちゃくちゃ寂しい! 毎晩電話するね! 浮気なんかしちゃダメ! 風俗だってダメだからね!』って言ってくれ。ああ、佐和、わかってる。俺はもちろん浮気なんかしないぞ!」  声色を使い分けたひとり芝居で、周防は僕を笑わせようとする。いつもの僕なら大きな声を出して笑っていると思うけど、その夜はちょっと笑うだけで精一杯だった。 「何それ? 意味わかんない」  赤と青、色違いの茶碗にそれぞれ口をつけた。箸先でお茶をかけたご飯をさらい、ふたりの真ん中に置いたたくあんを両側からつまむ。なかなか眠気が訪れない夜のテーブルに、たくあんを噛む音だけがぽりぽりと響いた。  いつもなら食器を片づけたら潮時なのだけれど、僕は食洗機が稼働し始めてもまだ、残りのたくあんをつまんでいた。周防は夜食の前に片づけたグラスをまた持ち出して、実家からの救援物資の箱を開ける。 「もう少し飲まないか?」 「ん、飲む」  リビングのカフェテーブルをちゃぶ台代わりに、床に座った。  テレビも点けず、音楽も流さず、ただ周防家の庭に実った金柑の砂糖漬けを肴に、交互に相手のグラスに瓶を傾け、周防のお父様お勧めのベンチャーウィスキーを飲んだ。  少し揺れる視界に、空になったグラスと瓶があって、僕はぼんやりしていた。周防は僕に寄りかかり、僕の髪を指に巻きつけては、匂いを嗅いでいる。  時計を見て、さすがにもう部屋に帰ろうと思ったとき、周防が僕の肩から膝へ滑り落ちた。呼吸は深い寝息に変わっている。 「風邪をひくよ、周防」  髪を撫でても返事はなくて、僕はそっと周防の頭を下ろし、寝室からダブルサイズの掛け布団を運んできて、周防の身体を覆った。  周防は寝具にこだわるタイプで、マットレスも男ふたりが一緒に寝ても身体をしっかり支えてくれるものを厳選するし、パジャマやカバー類や毛布やタオルケットも肌触りがよくてずっと頬ずりしていたくなるようなものを見つけてくる。もちろん掛け布団も然りだ。  僕は薄く唇を開いて寝息を立てている周防と、その身体を包む掛け布団を眺めた。僕はこの布団が雲のように軽く、寝かしつけるようにそっと身体を覆ってくれることを知っている。しかも今、この布団の内側は、周防の体温でしっとり温かいはずだ。周防と僕は体温がとても近いから、温度差の不快感がなくて、休日なら夕方までだって寝ていられる心地よさなんだ。  部屋の出口と、足許の掛け布団を、僕は何度か見比べた。  明日、周防は始発の飛行機に乗るために早起きだ。邪魔になったら悪いと思ったけれど、布団の魅力に抗えず、僕は周防の隣にもぐりこんだ。  今夜はなかなか眠気が来ないと思っていたのに、周防の体温と匂い、僕の顔に触れる寝息、全部が心地よくて、あっという間に全身から力が抜けた。  床に寝てしまったにもかかわらず、子どもの頃に夢想した宇宙遊泳のような気持ちいい睡眠を味わって、しかも髪を手櫛で梳かれながらゆっくり目覚めた。  頬に触れる朝の空気はまだ冷たくて新鮮で、布団の内側はしっとりと温かく、鼻先には僕の大好きな火をつける前のタバコの匂いがあった。  薄く開けた目の前には周防の喉仏が見えて、深くて温かい声が響く。 「まだ早いから寝ていて」 「ん」  気持ちよさに自然と笑んで目を閉じ、乳を求める仔猫のように顔を振って、周防の腋窩に鼻先を突っ込んだ。大きく息を吸って、甘くてほろ苦い匂いに満たされ、また身体の力が抜けていった。  次に目覚めたときは、はっきりと朝だった。シェービングフォームの粉っぽくて甘い香りと、吹きたての香水の揮発するアルコールの香りが、僕の頭をしっかりさせる。  始発の飛行機に乗る周防は、紺色のピンストライプのスーツを皺ひとつなく着こなしていた。  僕はまだ皺だらけのパジャマ姿で、玄関に立つ周防を見送った。  周防に心配を残させてはいけない。仕事に集中できるように、僕は自信を持って、明るい声を出した。 「留守は任せて。行ってらっしゃい」 「ああ。留守は頼む。行ってきます!」  周防が肩の高さで両手を広げたので、僕は腰の高さで両手を広げた。  腕の中に互いの身体を受け入れて、しっかりと抱き締めた。 「愛してるぞ、佐和っ!」  不意打ちで後頭部を掴まれ、頬にぶちゅうっと音を立てるキスをされた。 「うわあ。何だよ、もう。早く行きなよ」  僕がパジャマの袖でごしごしと頬を拭いているあいだに、周防は溌剌とした笑顔で出かけていった。  出社して、エナジーゼリーを口の中へ絞り出しながら、ひとりで新聞を読み終えた頃、周防はもう現地に着いて、積極的に動き出していた。  送られてきた写真は、抜けるような青空と、早くも満開の桜の花、そしてサングラスをかけた周防の笑顔だった。 「ビジネススーツにこのサングラスを合わせるなんて、カート・コバーンでもやらないと思うけど」  それは真っ白なオーバル型のフレームで、カート・コバーン、サングラスと検索したら真っ先に表示されるデザインだ。  カート・コバーンが愛用していたのは、クリスチャンロスというブランドの6558というサングラスだったのだけれど、周防がカート・コバーンに心酔し始めた頃には、ブランドは休止して、6558も廃番になっていた。  近年になって、ファッションブランドのサンローランが、6558をオマージュしたサングラスを発表し、周防はそれを愛用している。  周防は虹彩の色素が少し薄い。眩しさを感じやすいから、サングラスは必携だ。顔立ちが派手なので、どんなサングラスを選んでもよく似合って、ハリウッドスターのような華々しさがある。 「せめてビジネスシーンでは、黒のフレームにすればいいのに」  余計な口出しをしたくなるけれど、周防がスーツに黒のフレームを合わせたら、暗殺者やシークレットサービスみたいな威圧感がありそうだ。人懐っこい周防には、白いフレームのほうが似合っているのかなと思い直す。  僕は変わり映えしない執務室で、ただ腕を伸ばして自分にレンズを向けてシャッターボタンを押し、画面を見た。 「んー? なんだろ。つまんない感じ」  笑っているつもりが、口角があまり上がっていないし、目の光り方が弱く見える。 「これからの留守番を考えて緊張してるのが、丸わかりじゃん。カッコ悪い」  僕はコンビニで買ったボンタンアメの箱で口を隠し、目の光を見せないように斜め上を見て、シャッターを切った。 「ん。これでいいことにしよう」  送信ボタンを押したら、すぐに既読がついた。 『今日も1日よろしくお願いします』  いつもの言葉に、いつもの言葉で返した。 『こちらこそ、お願いします。今日もよい1日を』  まだ初日だから、様子見で行こう、今は状況を見極め、慣れることが先決だ。なんていうことは、周防はほとんど考えない。  彼はどこへ行っても人懐っこい笑みを浮かべ、もとからそこに住んでいる人のように馴染む。  そして「さぁ、全力で楽しんでいこう!」と自分にも周囲にも発破をかけて、手を叩き、声を出して、笑顔になった人を次々に巻き込んで、誰もが笑顔になれるビジネスを成立させる。 「うん。周防は、やっぱり白のサングラスが似合ってるね」  トーク画面に浮かぶ彼のサングラス姿をもう一度見て、僕も業務を開始した。

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