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【番外編】6558 Archive 1993 -Black-(1/4)
「俺たちが90日間も離れるなんて、初めてじゃないか?」
「そうだね。出会う前はずっと離れてたけど」
まったく動揺してくれない佐和に、俺は全力で食い下がる。
「出会う前だって、俺と佐和の小指は赤い糸でずっと結ばれていたし、これからも結ばれっぱなしだけどな。運命の相手と離れて過ごすなんて寂しいって、素直に言っていいぞ」
「僕は全然平気。心配しないで」
佐和の笑顔は自信に満ち溢れていて、俺は素直に拗ねた。
「その返事が寂しい。『大好きな周防と1か月半も離れるなんて、めちゃくちゃ寂しい! 毎晩電話するね! 浮気なんかしちゃダメ! 風俗だってダメだからね!』って言ってくれ。ああ、佐和、わかってる。俺はもちろん浮気なんかしないぞ!」
声色を使い分けてまくし立てても、佐和は涙袋をふっくらさせて微笑むだけだ。
「何それ? 意味わかんない」
完全敗北という言葉が頭をよぎる。
今夜は泊まっていってくれ、明日が不安なんだと言えば、佐和はもちろんそうしてくれるだろう。
でも、一方的に甘えて、佐和の重荷になるのはイヤだった。
俺はせめてものトラップに、冷蔵庫に食材を残した。佐和が部屋にやってきて、食べたり、飲んだりしてくれたらいい。そしてふと俺の存在を思い出してくれたら最高だ。
「そのたくあんの残りも、食べておいてくれないか」
と言おうとして振り返ったら、佐和はスマホを操作しつつ、スナック菓子のようにたくあんを食べ続けていた。
俺の視線に気づいた佐和が、背筋を伸ばす。
「ごめん、いっぱい食べちゃった!」
もう最後のひと切れが、半分かじり取られている。恋人だったら唇に挟んでキスをして、残りのさらに半分だけをもらうのだが、俺は顔の前で手を振った。
「ああ、いいんだ。全部食べてもらったほうがいい」
佐和をおびき寄せるトラップのひとつは消滅したが、そのくらいではくじけない。この部屋にはたくさんの『佐和ホイホイ』が仕掛けてある。
寝心地のいいベッド、ゆったり手足を伸ばせるバスタブ、ふかふかのタオル、肌触りのいいパジャマ、しっかりと身体を包んでくれるバスローブ、大きくて画質も音質もいいテレビ、全国から集めた日本酒とウィスキーとワインとビール、チーズ、チョコレート。
さらに実家からは折に触れて救援物資が届く。
佐和の好きなナスの揚げ煮と、俺が好きな小田巻蒸し、ジャムを添えたミートボール、いつでも焼くだけで食べられる餃子は、それぞれ保存容器いっぱいに詰められ、クール便で送られてくる。
さらに家庭菜園で採れた野菜の漬物や、庭で生ったフルーツを干したり、砂糖や酒で漬けたもの、梅干し、手作り味噌など、俺が食べ慣れた味で、市販では手に入らないものが入っている。家族の愛情はありがたい。
今回は庭に実った金柑の砂糖漬けと、地元のベンチャーウィスキーが入っていて、まだ帰る気配のない佐和を誘った。
カフェテーブルにグラスを置いて床に座り、差しつ差されつウィスキーを口にする。
特に会話らしい会話もなく飲んだのは、俺が寂しすぎて泣きそうで、口を開けなかったからだ。
理解者がいない孤立や時代の先端を行く孤独は、自己肯定感を上げれば満たされる。
でも、大好きな人と離れる寂しさは、大好きな人でしか埋められない。佐和の穴は佐和でしか埋められない。
佐和も何も言わず、グラスの中の淡い琥珀色を見ては、ゆっくり口の中へ流し込む。
俺は佐和の肩に寄りかかり、黒髪を指に巻きつけて遊んだ。明日からしばらくは触れないから、たくさん触っておきたい。
ウィスキーの瓶が空になり、何もやることがなくなって、俺は佐和の膝に頭を乗せた。佐和にくっつきたいときの常套手段、タヌキ寝入りだ。
寮生活でちょっとした面倒をやり過ごすために身につけた技だから、結構上手いほうだと思う。
腕を組んで顎を沈め、喉と口元をなるべく隠す。軽く目を閉じて眼球を動かさず、腹まで深く息を吸って、吐くのは自然に任せると、それっぽく見える。
「風邪をひくよ、周防」
優しく髪を撫でられて、幸せで心地いい。
耳周りの髪を掻き上げてくれたり、後頭部に手のひらを滑らせて何度も撫でてくれてから、佐和は俺の頭をそっと床に下ろし、身体に布団を掛けてくれた。
ああ、佐和が部屋に帰ってしまう。
明日は出発が早いから、挨拶はせずに行く。
お土産いっぱい買ってくるからな。
シーサーから、木彫りの熊まで、全部ペアで買ってくる!
浮気なんかもちろんしないし、誤解されるような態度もとらない。今どき風俗に誘ってくる人はいないと思うが、ちゃんと断る!
胸の中でいろんな約束をしていたら、布団の端が持ち上がって、佐和が入ってきた。マジか! 嬉しすぎる! 寝心地のいい寝具を揃えておいてよかった!
俺はタヌキ寝入り中だが、寝返りを打ち、佐和の首の下へ手を差し入れる。これは身についた自然な動作だから、寝ているときでもしていいと決めている。
佐和も素直に頭を乗せて、俺の腋窩に鼻先を突っ込んだ。なんて幸せな夜なんだ!
鼻先で佐和の髪を掻き分け、たくさん匂いを嗅いだ。どんなシャンプーを使っていても、その奥には洗濯を繰り返したオーガニックコットンのガーゼケットの香りがある。
好きな人と同じ布団で寝るのは緊張する。いつもそう思うのだが、同時に佐和の匂いと、馴染む体温の心地よさに安らいで、俺はひとりで寝るときよりも深く眠ってしまう。
ぐっすり眠り、まだ夜が明けきらぬうちに目が覚めて、隣で寝ている佐和の寝顔を眺めた。
眼球を覆う肉の薄い瞼や、放射状に伸びる黒いまつ毛、シャープなフェイスライン、はっきりと言葉を話すスリムな唇。
俺の髪も硬いほうだが、佐和の髪も硬い。手櫛で梳くと、シャリシャリと音を立てる。
ずっと撫でていたい。愛しくって、大好きだ。
佐和が、仔猫のようにぼんやりと目を開けた。俺は心の底から優しい気持ちになって言った。
「まだ早いから寝ていて」
「ん」
素直に佐和は目を閉じ、俺の腋窩に鼻先を突っ込む。
俺はしばらく佐和の髪を撫で続け、佐和がふたたび深く寝入ってから、一方的なことをして申し訳ないと思いつつ、髪に唇を押しつけた。本当に、本当に大好きだ。愛してる。
まだ寝ていてくれてよかったのに、佐和は起き上がって、玄関まで見送ってくれた。皺のあるパジャマ姿が、一晩俺の部屋で過ごしてくれた証のようで嬉しい。
佐和はサイドの髪に寝癖をつけたまま、頼もしい笑顔を見せた。
「留守は任せて。行ってらっしゃい」
「ああ。留守は頼む。行ってきます!」
俺は腹から声を出して挨拶し、肩の高さで両手を広げた。佐和は腰の高さで両手を広げ、俺の腕の中へ踏み込んで来てくれる。
互いの腕の中で、しっかりと相手の身体を抱き締めた。
「愛してるぞ、佐和っ!」
気持ちが盛り上がって言わずにはいられなかった。冗談にするために、頬にぶちゅうっと音を立てるキスをする。
「うわあ。何だよ、もう。早く行きなよ」
佐和は猫が顔を洗うように頬を拭いていて、俺は自分の気持ちが崩れないうちに玄関を出た。
後ろを振り返るまいと決意して家を出る感覚は、中学1年生の春の入寮日以来だ。
前日の夜、家族全員が集まった夕食の席で、俺は不安と寂しさが喉元までこみ上げて、泣かないようにご飯を口に詰め込んだ。
結局、そのときの俺は、口からご飯をこぼしながら泣いてしまったのだが、家族全員が励ましの言葉を口にしつつ一緒に泣いてくれた。湿っぽい夕食を温かいと思い、ますます離れたくないと思った。
寮生活が始まってしまえば、毎日が忙しく、楽しくて、親を思い出す時間なんてほとんどなかった。カップ麺やスナック菓子、綿入れ半纏を詰めた箱には『たまには連絡しなさい』と、キレ気味のメモ用紙が入っていたものだ。
「たまには連絡するか」
飛行機に乗った俺は、母親に宛てて救援物資の礼と、今日から90日間のキャラバンに出ることを書き、近況報告がわりに機内でそっと自撮りした写真と、昨夜撮った数枚の写真を添えた。
最近、佐和は煮込みハンバーグを作るのにハマっている。研究熱心だから上達は早く、日増しにふっくらと美味しく作れるようになっていた。
昨日はハンバーグの中にチーズを入れ、さらにデミグラスソースではなく、トマトの水煮に豆と野菜ときのこをたっぷり入れたソースにチャレンジした。ふっくらしたハンバーグは半分に切るとチーズが流れ出て、ソースはラタトゥイユのようなボリュームがあり、酸味も効いていて、とても美味しかった。
俺は市販の粉末に温かい牛乳を混ぜるだけのマッシュポテトを作る役目で、次第にもったりしてくるマッシュポテトを練り上げながら、口を開けて味見をねだり、存分に佐和の手や横顔を眺めた。
レンズに気づいた佐和が、涙袋をふっくらさせて微笑む写真や、完成した皿を前にふたりで一緒に撮った写真を見せつけるように母親へ送る。
最近の出来事の楽しい部分だけを存分にのろけて、つい本音を口にした。
『佐和は東京で仕事だから、離れ離れで寂しい』
二十代も後半になって、母親に泣き言を言うのは情けないが、不安と寂しさをこらえきれなかった。
『離れて相手を思う時間が、絆を強めることもあるんじゃない?』
思いがけずロマンチックな返事を受け取って、さすが俺の母親だと思う。
『ありがとう。佐和との絆が深まるように、キャラバン完走を目指す』
返信して降り立った空港は春の陽気で、桜の花が咲いていた。佐和に到着の無事を知らせるための写真を撮って、細めた自分の目が寂しそうなことに気づく。
「いきなり情けねぇな。絆を深めるどころか、見捨てられるぞ」
手持ちのなかで一番派手なサングラスをかけて目を隠し、派手に左右の口角を上げ、青い空と満開の桜を背景に写真を撮った。
佐和からの返信に添えられた写真は、口にボンタンアメの箱をあて、黒目がちな瞳は斜め上を見ておどけている。
「寂しがってくれないのは残念だが、このくらい元気なほうが安心できるよな」
俺は自分にそう言い聞かせて慰めた。
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