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【番外編】6558 Archive 1993 -Black-(3/4)

 工房の展示スペースには、前衛的な作品が数多く展示されていたが、子どもの目線で見るガラスの美しさは、格別らしい。女の子は、大人たちが商談まじりの世間話をしているあいだじゅう、目の高さにある展示品を見つめ続けていた。  俺はその瞳の輝きが気になっていて、話の切れ間に隣にしゃがんで同じ目線でガラス作品の棚を見た。大人が上から見下ろすのとは違い、それはそれは美しい宮殿みたいな世界が広がっていた。 「ああ、なるほど。これはきれいだな。舞踏会でも催されそうだ」  女の子は、俺の感想を気に入ってくれたらしい。工房を出てからも、ずっと一緒に行動した。  視察が終わり、親が自分の車に乗るよう促すと、一歩後ずさって俺を見た。 「行き先は同じだから、こっちの車に乗るか?」  チャーターしているワンボックスのタクシーにジュニアシートを載せ替え、女の子は俺の隣で足をぶらぶらさせた。 「俺、ちょっと仕事する」  移動しながら参加したオンラインミーティングのBGMは、女の子が保育園時代に習った歌と、入学したばかりの小学校の校歌だった。素朴な歌声は乾いた心に沁みて柔らかくしてくれる。  画面の向こうにも生まれて半年の赤ちゃんがいて、機嫌よく喃語を話す。大人だけで眉間に皺を寄せて意見をぶつけ合うよりも、ずっと和やかで建設的な話し合いができたと思う。  夕方に少し時間が空いて、観光名所の湖へ行ったが、照り映える夕陽に感動するよりも、追いかけて手を伸ばし、肩に触れたら身を翻して逃げる。単純な遊びを繰り返して大笑いした。  佐和と会えなくて寂しかったから、こんなにはしゃいで笑ったのは久し振りだった。  相手が小学生でよかった。これが同世代の女だったら、ホテルの部屋番号を教えていたかも知れない。  夕食は地元の料理屋へ案内されたのだが、女の子は俺とは別の卓へ行った。俺が手洗いに行ったついでに声を掛けると、広げていたお絵かき帳の上に覆い被さり、手を振って追い払われる。  俺は会社経営者らしく、周りの大人と情報や意見を交換して過ごした。デザートが運ばれてくる頃になって、女の子がやって来た。 「これ、あげる」  受け取った封筒を開き、四つ折りになっていた紙を開く。そこには三角屋根の家と、チューリップの花が咲く庭があり、矢印で『すおうさん』と示されたスーツ姿の俺が、女の子と手をつないでいた。ふたりとも口を半月型に開けて、弓形に目を細めている。 「ありがとう! とても楽しくて、素晴らしい絵だ。会社の壁に飾らせてもらう」  女の子はうつむきながら、頷いた。  さらに大人たちから、ほかにも言うことがあるでしょうと口々にうながされて、女の子は俺の隣で両手を後ろに組み、肩を左右に揺らした。 「うん、何?」  うつむく顔をのぞきこむと、女の子は顎を引いたまま、上目遣いで何かを言った。聞き取れなくて、口許に耳を寄せた。 「またデートしてチューしたら、結婚しよう」  俺は思わず胸を手で押さえ、椅子から降りて彼女の足許に片膝をついた。手を取って心の底から感謝の言葉を述べる。 「ありがとう。とても嬉しい。大人になってもまだ、その気持ちが残っていたら、ぜひウチの会社に来てくれ。何か面白いことを一緒にやろう」  俺はビジネスバッグから折り紙を取り出した。テーブルクロスの上でハートのブレスレットを折って、女の子の手首に巻いてあげる。  その作業の合間にも、 「周防社長はご結婚されているの?」 「本当はどなたかいい方がいらっしゃるんでしょう」 と、質問を投げてくるから、大人は残酷だ。俺はそっと女の子の耳を両手で塞いだ。 「独身です。大切な人はいますが、今はオフレコで。彼女が小学校に慣れたら、きっとすぐに素敵な王子様と出会って、俺はふられてしまうでしょうから、今だけモテさせてください」  話し終えてから、そっと手を外し、俺を見上げる女の子の頭を撫でた。  店の前でハイタッチをして、笑顔で解散したのだが、俺がホテルに帰り着いたタイミングで、女の子は帰りの車の中で泣いていたと知らされて、胸が痛くなる。  佐和に女の子と一緒に撮った写真を送り、今日の出来事をメッセージした。 『将来、デートして結婚してくれるらしい。素晴らしい絵を描いてくれたから、お礼にブレスレットをプレゼントした』 『よかったね。レポートも見たよ。前向きな、いい話ができたみたいだね』  俺に関心を持ち、行動を把握してくれていたことに感動する! 枕を抱いて泣いていたのが嘘のように、俺は枕を抱えてベッドの上を転げ回った。 『かっこいい切子グラスを作る人がいたから、青と赤でオーダーした。半年後くらいに届くはず』 『楽しみだね』  ああ、早く佐和に会いたい。そう言いたくなって、俺はトーク画面を離れた。  SNSに煮込みハンバーグの写真を見つけたのは、そのあとだった。  佐和は個人のアカウントは持っていないし、俺も古都とはつながっていない。  だが、お姉ちゃんが古都とつながっているから、俺の画面にもたまに古都のアカウントが表示される。  市販のデミグラスソースで煮込んだレシピだが、マッシュポテトとブロッコリーと人参が添えられて、仕上げにコーヒーフレッシュがかかっている。 『#彼ごはんとは彼が作るごはん、#ハンバーグ好き、#お弁当部』とハッシュタグが添えられていた。  古都が現在誰とつきあっているのかは知らないが、玉ねぎを荒く刻んで食感を残すやり方は、俺の意見が反映されたからだし、なめらかなマッシュポテトは温かい牛乳で練り上げると知っている。  これ以上は見るべきではない。わかっているのに、つい古都のアイコンを押してしまった。  流木の上に並べられたペアのシルバーリング、夕陽に染まる砂浜で古都の手をひいて一歩先を歩く男性の後ろ姿、ガラス越しの夜景の前でそっと触れ合わせたシャンパングラスと、次々に見せつけられる。意地汚くリングの写真をピンチアウトして、内側にSのイニシャルが刻印されていることまで確認してしまった。  俺は枕に顔を押しつけて絶叫し、スプリングが軋む強さで両足をばたつかせた。 「俺だって銀細工のペアアクセサリーを買うし、佐和の手を包む手袋も買うし、シャンパンも、シャンパングラスだって買ってやる! 買ってやる! 買ってやる!」  枕をベッドに繰り返し打ちつけ、乱れた髪が自分の頬を打って、ベッドに拳を突き立てた。  張り合うなよ、と内なる声が聞こえても、ほかに自分の気持ちの持っていきようがない。悔しい、俺だってと思ってしまう。  きっとまた、佐和に無駄使いをたしなめられる。わかっていても、行く先々で、世界にワンペアしかない現代作家の作品を買い求めた。

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