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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(95)

 翌朝、佐和はジャケットの袖口から、しきりにワイシャツの袖を引っ張る。俺は自分の首回りが気になって、何度も首と襟のすきまに人差し指を突っ込んだ。 「僕たち、ぜいたくしてるって実感するね」 「オーダーメイドに甘やかされてるな」  ディスカウントストアで下着類と一緒に買い求めたワイシャツは、首周りと袖の長さがアンバランスで、自分の身体に馴染まない。 「やっぱり、家に帰って着替えてから出社する?」  すでに髪をオールバックに調え、伊達メガネを掛けている佐和だが、30分前まで俺の興奮を舐めまわし、口に頬張ってくれていた。その悦びを胸に、俺は首を横に振る。 「佐和との朝帰り感が消えるからヤダ。今日一日は、ワイシャツの着心地の悪さを感じるたびに、俺とのセックスを思い出してほしい」  俺の駄々に、佐和は鏡の前で身なりを整えながら苦笑する。少し顎を引いて、上目遣いに鏡を見て、左右の口角をほんの少し動かすだけの苦笑が似合うなんて、佐和朔夜はカッコよすぎる。  俺は笑いかけられた鏡に嫉妬して、鏡と佐和の間に立つ。佐和のネクタイをはね上げ、ワイシャツの第2ボタンを開け、アンダーシャツの襟を引き下げて、露出した肌に唇をつけて思い切り吸った。 「もうっ! ここ数日、キスマークばっかり! むず痒くて気になっちゃうよ」 「疼くたびに俺のことを思い出してくれ」  俺はまだ靴下を履き、ワイシャツを着ただけの姿で歩き回っていた。  トラウザーズを手に片足を上げた瞬間、突然佐和にタックルを食らって、ベッドへ押し倒される。 「うわっ!」  シャツをまくりあげられ、第2ボタンのあたりにキスマークをつけられた。 「僕のこと、思い出してね」  佐和は立ち上がり、胸の前で腕を組んで、俺を見下ろしながら笑った。  俺はキュンとする胸に両手を重ねて約束した。 「今までもこれからも、ずっと佐和くんのことを思い続けるわ♡」  裏声を出し、顎を引いた上目遣いで返事をしたら、佐和は笑って俺の手を引っ張った。 「エッチな周防を見るのも楽しいけど、仕事をしてるカッコイイ周防も見たいな」 「めちゃくちゃカッコつけて働きます!」  車の後部座席にクマのサネオミを乗せたまま出勤し、サネオミはまた車の中でのお留守番を言い渡されて、くたっとうなずく。  俺は佐和の執務室のドアをノックせずに開けて、いつも通り新聞に目を通し、互いのスケジュールとコンディションをチェックして、一日が始まる。 「今日も一日よろしくお願いします」 「こちらこそ。よい一日を」  握手を交わし、自室に戻ってメールチェックして、大門さんからのサンキューメールを読んだ。 「そういや、あんなに吐いて緊張してたのに、今朝は普通に食べていたな」  台湾料理店でテイクアウトした豆乳スープと惣菜パンを、新聞を読みながら平らげていた。古都と話せて、ラクになったんだろう。 「佐和には俺が嫉妬する過去があって、俺には佐和が嫉妬してくれるような過去がないのが悔しいけど、これから一生幸せな俺の勝ち!」  声に出して自分に言い聞かせていたら、お姉ちゃんが入ってきた。 「お姉ちゃん、おはよう。今日、早出だっけ」 「違うんだけど、金曜日に午後半休とりたいから、仕事の前倒し」  仕分けした郵便物を手にしたお姉ちゃんは、佐和と同じ真っ直ぐな黒髪を胸まで伸ばし、ハーフアップにして、パールのバレッタで留めている。  うなじの双子星のほくろに重なる火傷の痕は、残念ながらケロイドになって残ってしまった。肌理(きめ)がつぶれた皮膚は、いずれサテンのような美しい光沢を持ち、星のように光ってお姉ちゃんを彩るだろう。  しかし、お姉ちゃんがショートヘアやまとめ髪を楽しめるようになるには、まだしばらくの時間が必要だ。  光島のことなんか考えたくないと思うのに、残る傷痕が俺の神経を刺激する。腸が煮えくり返る。  だが、光島を責めるとき、同時に自分を責める声も聞こえてくる。  俺だって、恋人には思い出して欲しくて痣を残し、窮屈なワイシャツを強要している。  息苦しさを感じて、無意識に首とワイシャツの襟のあいだに人差し指を突っ込んだ。  佐和が古都ちゃんのことを考えて、自分だけが幸せになるなんて申し訳ないと泣いた気持ちが少しわかる。  俺もお姉ちゃんに、うっかり「俺、佐和と結婚して幸せになっていい?」と訊きそうになって、慌てて腹に力を込め、受け取った郵便物の束に視線を移した。 「今週の金曜の午後は、俺も会議で寝てるだけだから、気兼ねなく休んで。何か楽しいことをするの?」 「女ふたり、夜景が美しい高級ホテルでおこもりデート。スパでフルコースの施術で受けて、食べて、飲んで、おしゃべりして過ごそうかなって」  お姉ちゃんの笑顔に、俺も自然と笑顔になった。佐和が笑ってくれるのも、もちろんうれしいが、お姉ちゃんが笑ってくれるのも、俺にとっては大切でうれしいことだ。 「それはいいプランだ。ぜひ楽しんできて。ホテルの部屋にワインかチョコレートでも差し入れようか。何がいい?」 「ワインがいいかな。ちょっとヤケ酒の気配もあるから」 「ヤケ酒? 俺、また何かやらかしたっけ?」  少なくとも直近3か月『もう、周防くんの秘書なんてやってられない!』と言われるようなミスはしていないはずだが、そう水を向ければお姉ちゃんは話しやすい。 「違うの、ヤケ酒は私じゃない。昨日、夜中に突然連絡が来たから、詳しいことはわかんないけど。元彼に久しぶりに会ったら、もうすぐ結婚するって言われたんだって」  主語はなかったが、いくら鈍い俺だって、古都の話だとすぐにわかる。ついでにいえば元彼が佐和だということも知っている。 「元彼に未練があったってことか?」 「うーん、まだ好きだったのかなぁ? たまに『連絡してみようかな』なんて言ってたけど。もうヨリを戻すのはやめなよって言ってたんだけどね。恋愛って、周りが反対するほど燃え上がるじゃん? 年下だから可愛くて許しちゃうなんて言ってたよね」  お姉ちゃんは、俺が読み終えた郵便物をシュレッダーに流しつつ、肩をすくめる。 「年下の彼氏って、そんなに可愛いものなのか? 同い年の彼氏は最高にカッコよくて、世界一可愛いって思うけどな」 「はいはい、そういうのはあばたもえくぼって言うのよ。自分の弟ならカチンときても、『弟みたいな彼氏』だったら、プライドが高いところも、生意気なところも、可愛かったんだと思う。その彼氏がどんな人なのか知らないから、ただの想像だけどね」  古都はきっとお姉ちゃんに、親友の弟と付き合ってると言うか、交際に関する惚気や愚痴を言うか、どちらかしか選べなかったのだろう。  あなたの弟が好きです、片思いで苦しいです、彼は旅行の土産にキーホルダーをくれましたと、早い段階から何でも言えた俺は、古都より思い煩うことがひとつ少なくて済んだ。  何でもかんでも古都と自分を比べる自分の性格の悪さや意地汚さをコーヒーで腹の底へ押し戻し、身を乗り出してお姉ちゃんの顔をのぞきこむ。 「じゃあ、お姉ちゃんも、俺のことは可愛いくて許しちゃうってことだな」 「はあ? 自分の弟にはカチンとくるって言ってるでしょ。ムカつく」  顎を上げて俺を見下ろす姿は、姉弟そっくりだ。  俺は素直に両手を挙げた。 「シャンパンもワインもチョコレートもフルーツも差し入れるけど、俺の名前は出さないでくれ。せっかくの休暇に仕事を思い出させるのは申し訳ないから」  佐和が工事現場の未来予想図を見ながら泣いていたのは、単なる憶測や当てずっぽうではなく、古都ちゃんのことを深く知っていたからなんだなと、今さら理解しつつ、俺はホテルにシャンパンとワインとチョコレートとフルーツを注文した。 「この程度で、佐和を奪って、幸せになってごめんなさいとは言えないけどな」  お姉ちゃんが出て行ったあとの部屋でひとり呟いた。 「水球だって、仕事だって、獲れるヤツがいれば、同時に獲れないヤツがいるのは、毎日のことだろう、眞臣(さねおみ)。しっかりしろ」  両手で強く頬を叩き、できたばかりの新しい共有フォルダをクリックする。 「さあ、仕事に邁進して、佐和がうっとりするようなカッコイイ周防社長になろう!」  背筋を伸ばし、鼻から大きく息を吸って、大門さんが作った企画書の叩き台を開いた。

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