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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(96)

 まだ昨日の今日だ。株式会社紅や高尾とは、業務提携に関する正式な書類を交わしていないし、地方創生推進コンソーシアムの後援もついていない。  しかし、大門氏は朝から積極的に動きまわり、なんと昼には有力な話を一つ掴んできた。 「うっわ、マジか」  出先近くの公園でプリンを食べていた俺は、口にくわえていたスプーンを土の上に落とした。  このあとどうやってプリンを食べたらいいのか、大門氏が持ってきた話の中で俺はどう立ち回ったらいいのか、両方に気が滅入る。 「プリンのスプーンぐらいでめげないぞ、俺は!」  プリンは指を突っ込み、カップを揺らして崩して飲み干したが、業務提携のほうはめげそうだ。苦いカラメル味の指をくわえて、盛大にため息をついた。 「資金繰り予測の精度向上については、今後も地道にPCDAを繰り返していくことが、重要であると考えています」  午後の会議で佐和と再会した。  朝まで一緒にいたのに、会えるとうれしい。  マイクを通して会議室に満ちる声は凛々しく、視線は鋭くて、まるで冬の夜空みたいに冴えた姿にみとれた。 「定期的な予実分析と、現場へのヒアリングを繰り返すことで、子会社の手元資金を最小限に絞り、動かせる余剰資金を捻出して……」  グループ全体を見渡して資金を動かすときの基本姿勢について、ときどき思い出したように横槍を入れてくる担当者たちを相手に、佐和は何度でも同じことを言う。  俺なら、何度も同じことを言わせるな、各自で過去の議事録をあたれ、研修に組み込んでおけ、紙に書いて壁に貼っておけと言いたくなる。  しかし佐和は、相手が疲れるまで文句を言わせて、息をついたタイミングでぱっと襟首をつかみ、目を見てしっかりと言い聞かせる。 「私からは以上です」  佐和はマイクを切って、まるで無意識の動作のように、ワイシャツの袖を軽く引っ張った。  育ちのいい佐和が、オフィシャルな場面で衣服の乱れを無意識に直すことはない。  俺も無意識を装って、レジュメを見ながら、ワイシャツの襟に人差し指をすべらせた。  佐和の視線はタブレットPCに向いていたが、涙袋がふっくらしていて、俺を見てくれたのだとわかる。  こんな小さな遊びが、カラメルみたいに粘っこく苦く底に沈んでいた気持ちを、軽く甘くしてくれる。 「時間となりましたので、ここまでとします」  司会者の言葉を合図に全員が一斉に動き出す中で、手元の荷物をまとめて抱えた佐和が、まだ座っている俺のところへやって来た。  真面目な顔をして俺の隣に立ち、テーブルに書類を持った手をついて、俺の耳元へ話しかける。何をネゴられるのかと思ったら、ロクヨンと言った。 「ロクヨン。朝から何回僕のことを思い出した?」 「1回。ずっと思い出していた」  佐和は片づけをする人たちを見回しながら言う。 「ちゃんと仕事しなよ。僕は100回くらい思い出した」  今度は俺が、手元のレジュメを見ながら言い返す。 「ちゃんと仕事しろ」 「お互いにね」  佐和は俺の背中をたたいて、会議室を出て行った。  俺の気持ちはプリンのように甘く揺れて、笑いながら立ちあがった。どんなときも俺を笑顔にする佐和は魔法使いかも知れない。 *** 「やっぱ、いるよなぁ」  教授の研究室で、挨拶より先にはっきり口に出してしまった。 「ええ、いますねぇ。私は教授のアドバイザーですから、どうぞお気になさらず。名前も出していただかなくて結構です」  光島は椅子に座って足を組み、チノパンの膝を抱えたいつものポーズで、穏やかに笑っている。  業務提携一発目のプロジェクトは、光島がメンバーに加わっていた。  佐和と俺が世話になったゼミの教授が企画に反応を示し、積極的に手を挙げてきた。以前、俺が特別講義に出向き、『朔夜』という名前のリップグロスを持つゼミ生がいた、あのゼミだ。  教授は地域経済に深く関わっていて、要人への太いパイプをいくつも持っている。しかもみずみずしい感性を持つゼミ生たちから意見やアイディアを拾えるのだから、断る理由はひとつもない。  紅や高尾にとっても、SSスラストにとっても、いい話ばかりで、この件から下りるという判断はありえなかった。  俺はプリンのスプーンを落っことした瞬間から、万に一つ、光島がいない可能性に掛けていたのだが、教授の肝いりの企画に、教授のお気に入りの光島がいない訳がない。  静かに鼻から息を吸い、開き直って、教授にも光島にも聞こえる声ではっきり言った。 「大門さん。光島氏は、佐和凜々可の元夫です。凜々可や弟の佐和は、光島氏と今後一切の関わりを拒否しているということだけ、お含みおきください」 「かしこまりました」  静かにうなずいてくれる大門氏に、光島も軽く頭を下げる。 「余計な気遣いをさせて、申し訳ありません。離婚に関しては、100パーセント私に非がありますので」  わかってるなら、のこのこ出てくるなよと言いたいが、東京からわざわざ飛行機に乗って、のこのこ出てきているのは俺のほうだ。  俺は佐和以外の人間に対しては、いつもぎりぎりまでいい顔をして耐え、嫌いになったら一気に冷めて撤退してしまう。佐和にゼロヒャクの思考回路と指摘される要因のひとつだが、なかなか直らない。  だから光島なんて、大嫌いな人間の筆頭だ。  株式会社SSスラストの代表取締役社長、CEOという肩書きが俺を我慢させているだけで、今すぐにでも光島の腹にナイフを突き立てたい。  自分の感情がトラブルを引き起こす前に、このプロジェクトから抜けたい。 「周防社長には気苦労をおかけしますね」  ビジネス用の顔から感情を読み取られて、心の中で舌打ちする。俺と佐和とSSスラストを一番近くで見て、育ててくれた人物だと思い知らされる。  あんなことさえなければと悔しくも、苛立たしくも思う。  さらに悔しく苛立たしいことに、光島の仕事の勘や腕はまったく鈍っていなかった。 「周防社長は、どこにこだわっているんですか? 言葉や数字で表せることは、専門家に任せておけばいいんです。単なる歴史の追従ではなく、歴史を追い越して切り拓き、新たな価値を創造することがこのプロジェクトであり、SSスラストさんの役目ではありませんか」  プロジェクトについて、何か違うと思ってもすぐには指摘できなかった俺に対し、光島は容赦なく突っ込んできた。  ど真ん中を突かれて、呼吸すら止まる。久しぶりの爽快感に、つい口元がゆるんでしまった。  何を笑っているんだ俺は! 深呼吸して表情を引き締めようとしたが、教授と大門氏の肩から力が抜けたことに気づいた。 「すみません。私と周防社長の個人的な事情で、おふたりには緊張を強いてしまいましたね」  光島の言葉に、ふたりは小さく首を横に振っている。だが部屋の空気はまったく変わっていた。  俺の不機嫌がメンツの負担になっていたってか? 悪かったな、仕事に私怨を持ち込むガキで! 「申し訳ありません。肩に力が入りすぎていました」  謝罪して、教授と大門氏に向けて笑顔を作ったら、ますます雰囲気がよくなってしまい、笑顔を引っ込める訳にはいかなくなった。  ああ、早く家に帰って佐和に会いたい! 直接肌を感じて癒されたい! さっさと話をつけて東京へ帰るぞ!  俺はテーブルの下でスマホを操り、東京行きの飛行機の時刻表を見た。

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