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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(98)
端末のログ解析が終わるのを待ちつつ、ヒアリングは続く。精神的な疲労を感じていた俺は、テーブルに組んだ手を置き、床と自分の革靴の先を見ながら、大きく息を吸って吐いた。
靴の側面、小指の付け根あたりに小さなすり傷を見つけ、あとで磨かなくてはと思う。
集中力は完全に切れていて、今度の週末に、佐和と一緒に靴を磨いたら楽しいだろうなと、ぼんやりした。
「ところで先ほどスマホをお預かりするとき、なぜ周防社長のスマホを、佐和副社長がお持ちだったんですか」
調査委員の言葉で我に返り、俺は背筋を伸ばした。何を言われていたのか、脳内のレコーダーを巻き戻して再生した。
「あ、ああ、スマホ。スマホですね……あの、それは、俺が短気だからです。怒りが高じて余計なケンカや、短絡的な行動に打って出そうなときは、佐和にスマホを預けることにしています。自分を抑えるための手続きです」
どぎまぎと話す俺の姿にも、ただ静かに「そうですか」と相槌を打つ。
下手を打ったかなと思ったが、時間は巻き戻せない。テーブルの上に用意されていたペットボトルの水を飲んで、口からゆっくり息を吐いた。
調査委員が呼ばれて、部屋の外で話し合う気配があってから、数枚の紙を手に戻ってきた。
「周防社長のスマホのログです。この部分は、2週間ほど前にトークから削除されていたものを復元しました。ご説明願えますか」
プリントアウトした紙にはアルファベットや半角記号のコンピュータ言語が並び、日付と時間のあとに『今回は10で』と書かれていた。
「わかりません。これは本当に俺の履歴ですか?」
疑問に思ったが、その前の『お疲れ様です。今、どちらにいらっしゃいますか? テレビ局の方がお見えになりました』『エレベーターホール。すぐ戻ります』というやり取りは記憶にある。
「担当者はこの『今回は10で』という指示を受けて、キックバックの金額を広告代理店に伝えたと言っています」
「は? そんな指示をした覚えはありません。俺は単位をつけない曖昧な指示はしません。何か別の指示を曲解されているのでは……いや、でもこんな文章を送った記憶がまったくありません」
「2週間ほど前、正確には13日前です。記憶をたどってください」
「当日のスケジュールと日報を確認したいです」
端末ではなく、プリントアウトした用紙が置かれた。
「この時間は、テレビ番組の取材を受けています。就活中の大学生がインタビュアーだったので、意外に手間がかかって、予定より30分くらい時間が押しました」
俺は記憶はしっかりしていた。休日の朝に放送するビジネス経済番組で、そのなかの就活生向けのミニコーナーの取材に答えた。
「この時間、スマホをはじめとした端末には一切触っていません。撮影中に音が出ては困るということで、スタッフに預けました。秘書……ではなく、広報担当の彼に預けました」
俺はログを見ながらその日の景色を映画のように思い出す。
「たしか、取材で紹介する本を、佐和副社長のデスクに置き忘れたので、持ってきて欲しいと社内チャットで連絡しました。それ以降は電源を切って、広報担当に預け、取材が終わるまで触っていません」
調査委員はうなずいたが、首をかしげた。
「たしかにここで一旦、電源はオフになっているのですが、12分後にオンになって、メッセージが送られています。その後、また電源が切れているんです」
「取材が開始して、佐和に本を持ってきてもらってからは、集中して一気に話しました。スマホを確認することは一切ありませんでした。テレビ制作会社に確認してください。編集前のデータがあるはずです」
調査委員はうなずいたが、納得はしていなかった。
「では、誰がスマホの電源を入れて、メッセージを送ったんでしょうか。スマホのロックを解除して操作できる人に、心当たりはありませんか」
そんな心当たりは、佐和しか思いつかない。しかし佐和がそんなことをするとも思えない。
「ロック解除は生体認証のようですが?」
「はい、指紋でロック解除しています。PINを入力することもあります」
「どなたの指紋を登録されていますか?」
俺は正直に告げた。
「俺と、佐和副社長です。でも、佐和がそんなことをするはずがありません。そんな少額を横領するメリットがない。もし彼が会社のカネを横領するとしたら、それは会社のためになる正当な理由があり、なおかつ法律に触れない、証拠を残さない方法を選んで、綿密な準備のもとに実行するはずです。金額だって、自分のポケットマネーでは賄えないような高額になるはずです」
「佐和副社長が横領に関わっているという心当たりはありますか?」
しまった、かえって疑いを持たせてしまったと後悔しつつ、俺はきっぱり首を横に振った。
「ありません。俺に何も言わず、一人でやることはない。もし犯罪に手を染めるときは、俺も一緒です」
メロスとセリヌンティウスの友情だって、夕日が沈む前にたどり着くという、はっきりと目に見える形で示す必要があった。
友情や絆を強調したところで、あまり説得力はなさそうだ。
委員は別の調査委員に呼ばれ、部屋を出る。ドアが閉まるとき、ちらりとお姉ちゃんの姿が見えた。何か仕事の指示が必要で、ヒアリングを中断して欲しいのか。
ドアの向こうで少し話し合う気配があり、二人の調査委員とお姉ちゃんが一緒に部屋へ入ってきた。
「姪の多笑さんから私宛に連絡が来ました。周防社長とも、佐和副社長とも連絡がつかないからって」
「ああ。今、スマホはログ解析中だから、つながらないと思う。多笑は何だって?」
お姉ちゃんは、画面を読み上げた。
「『社長と副社長の指示でやった仕事が原因で、会社を辞めさせられそうになっている。周防社長と佐和副社長に俺を辞めさせないように言って、助けてほしいという連絡が来ました。どうしたらいいですか』とのことです」
俺の眉間にシワが寄り、眉がつり上がるのが自分でわかった。
「ふざけるな! 俺も佐和もそんな指示はしていない! どうして会社のカネをそんなやり方で、ヤツだけに特別にくれてやらなきゃならない? 本当に必要なら、特別報奨金を支払う! ヤツはどうやって多笑に連絡をした? スマホは調査委員会に提出していているはずだろう。多笑はSNSはブロックしていないのか?」
「昼休みに、多笑さんのご自宅に公衆電話からかかってきたそうです。調査は午後一時から開始しました」
俺は思わず立ち上がり、テーブルを叩いた。
「調査を察して手を打ったつもりか! そこまで嗅覚がはたらくなら、人の気持ちを察して大切にするよう立ち回れ! クズが! ……すみません、最後の冒涜的な発言は取り消します」
俺はお姉ちゃんにも指示を出した。
「明日以降も調査が続くのかはわからないが、調査対象者も夜には一旦帰宅させられるはずだ。そのとき多笑に危害が及ばないように、少なくとも今夜は一人で家を出ないこと。明日も登下校は家族に車で送り迎えしてもらうよう伝えてくれ。あとで俺も実家に連絡する」
お姉ちゃんが部屋を出ていき、俺は勢いよく椅子に座り直し、よく見れば擦り傷の多い革靴の足を跳ね上げた。
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