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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(99)
「とにかく私はスマホに触っていないし、そのような文字列を送信した記憶も一切ありません。その時間、私のスマホを持っていた彼に指紋認証かPINを突破した方法を……」
俺はそこまで話して、小さく息を吐いた。
「PINコードは定期的に変えていますが、今は姪の誕生日です。手の動きを観察すれば、すぐに推測できたかも知れません」
たった4桁の数字だ。0000から9999までの総当たりは難しくても、推測できれば、突破は簡単だろう。
「少しお待ちください」
調査委員がまた部屋から出て行った。俺は大きく吸った息を口から細く吐き、腕時計を見る。
「今日中に帰れるかな」
これまでの経験から長期戦を覚悟していたが、俺はあっさり解放された。
「ご協力ありがとうございました。本日はお帰りいただいて結構です」
赤いスマホが返され、タブレットPCも元通りだった。
俺は「疲れた」と言えない代わりに、鼻から大きく息を吸って肺の中の空気を入れ換える。
「佐和は?」
「お答えできません」
つまり、まだどこかの部屋に閉じ込められているということだ。
俺はコピー用紙に油性ペンで大きく文字を書いた。
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佐和様
お疲れ様です
今夜は餃子で呑みましょう!!!
周防
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佐和のデスクに置き手紙をして、俺は会社を出る。
「こういうときは、餃子に限る!」
途中で立ち寄ったスーパーマーケットの袋を手に帰宅して、包丁を握った。
丸ごとのキャベツを押さえつけて、十字に包丁を押し込む。重なる葉を一枚ずつ切りながら、包丁が沈んでいく手応えが心地いい。
ザクザクと音を立ててキャベツを切り分け、さらに端から細かく刻んでいく。
ストレスで苛立っているとき、何かを破壊したい衝動に駆られる。物に八つ当たりしたところで無益なだけだが、キャベツやネギを刻めば、破壊行動も有益になる。刃物の扱いに集中して、つまらない思考から離れられるし、完成すれば達成感も得られて気分がいい。
豚バラ肉も細切りにして、調味料や刻んだ野菜とともにこねる。
粘土遊びのような楽しさで手を動かしていたら、佐和が帰ってきた。
「ただいま」
俺の腰に手を回し、頬にしようとしたキスを、俺は振り向いて自分の唇で受ける。
舌を突っ込んだら、笑いながら受け入れられた。ふわりと笑う佐和の吐息も余さず吸って、口中を味わった。
「ん……っ」
佐和が鼻にかかった声を上げ、口を離す。頬を赤くし、俺の目を見て涙袋をふっくらさせながら、手の甲で口元を拭った。
「続きは餃子を食べてから。ね、周防?」
俺は勢いよくうなずき、両手をべたべたにしたまま、佐和に頼む。
「おろしニンニクを入れてくれ。愛しあうふたりにとって、ニンニクは推進力になれど、障壁にはならない」
俺の言葉に、佐和は笑った。
「僕、明日は弁護士の先生と打ち合わせなんだ。だから、少しだけ」
チューブからほんの数ミリだけ絞り出して、俺の耳に口をつける。
「浮気防止には、量が足りないけど。周防は浮気なんかしないよね?」
「もちろんです!」
皮に包む工程へ進もうと、タネを両手からそぎ落としていたとき、近くに置いていたスマホが鳴動した。
「あ……っ」
相手のアカウントはMitsushimaと表示されていて、俺はその名を佐和の眼に触れさせたくないあまり、脂のついた手でスマホを床へ払い落とした。
「周防、大丈夫?」
「あ、ああ。スマホを取ろうとして、手を滑らせた」
「自分でとらなくても、僕がとってあげるのに」
俺のスマホを拾い上げ、バックライトを点灯させようとする佐和の前に立ち、俺はべたべたな両手をハングアップしたまま、強引にキスをした。
「仕事の連絡だから、返事は明日にする。そんな面白くないメッセージなんか見ないで、もっと俺を見て」
俺の口説き文句に、佐和は頬をバラ色に染めた。
俺は急いで両手を洗い、スマホを自分のポケットに入れて、佐和を抱き締め、唇を重ねる。
しかし、光島からの連絡はしつこく、メッセージだけではなく、通話まで仕掛けてくる。
「返事をしたほうがいいんじゃない?」
佐和に促され、俺は盛大にため息をついて、スマホを手に書斎に閉じこもった。
「電話なんかかけてくるなよ」
重だるく感じる胃のあたりを押さえつつ、俺はストレートに文句を言う。
光島は事務的な口調で、しかもやや早口だった。声の向こうには救急車のサイレンが聞こえる。
『申し訳ありません。教授がゼミの途中で体調を崩され、先ほど腎臓結石でご入院されました。命に別状はないそうですが、さすがに明日のカンファレンスは出席できません。私が代理で伺いたいのはやまやまですが』
「は? 来るなよ。明日の午前中なら、リスケできる。俺が行く」
明日のカンファレンス会場は、佐和とお姉ちゃんが念書で指定した接近禁止の範囲に含まれる。
『わかっています。なので、学生たちが作ったサンプルをお渡ししたいです。明日の朝イチの便で羽田空港まで届けます』
「わかった。空港まで行く」
サンプルを受け渡す時間と場所を決めて通話を切り、握り締められたように痛む胃を押さえる。
「マジで、早く後任を探そう……」
デスクの引き出しから、常備している胃薬のチュアブル錠を取り出し、噛み砕いた。
「しっかりしろ、眞臣」
低く唸って、両手で頬をたたいて気合いを入れた。
キッチンに戻ると、佐和が餃子の皮に餡を包んでくれていた。
「もうすぐ包み終わるから、焼くのはよろしく」
「もちろんでございます」
焼いた餃子は食欲をそそる匂いがして、俺たちは互いの口に食べさせ合い、合間にキスをして過ごした。
ベッドの中では、佐和がいつも以上に積極的で、向かい合う俺の腰に両足を絡めてきた。
「奥っ、もっと奥まで来て! すおう、いなくならないで!」
俺は興奮を引き抜き冷まして時間を稼ぐことも、大きく腰を使って佐和を攻略することも許されなかった。ただ熱くうごめく粘膜に包まれ、扱かれた。先端を湿った内壁にキスさせながら、佐和に抱かれて射精し、下半身が蕩けるような快感を味わった。
「ねえ、周防。僕の身体は、ちゃんと気持ちいい? セックスは楽しめてる?」
佐和は、俺の腋窩に鼻先を突っ込みながら、もごもご言う。
「どうした、急に? めちゃくちゃ気持ちよくて、めちゃくちゃ楽しんでるぞ?」
「そっか。僕は男だから。周防は男とセックスして気持ちいいかな、楽しめてるかなって、ときどき不安になっちゃうんだ」
「無駄な心配だな。死ぬまで佐和以外の誰ともセックスしたくない。佐和がいい。佐和が最高。佐和のことが一番大好きで、一番気持ちよくて、愛してる!」
顔じゅうにキスの雨を降らせ、さらに首筋を軽く吸い、撫で回して尖らせた胸の粒を交互に口に含んで舌先で転がした。甘い声を上げて腰を揺らす佐和の中へ、再び侵入してひとつになり、愛し合った。
翌朝、空港のロビーで待ち合わせた光島は、サンプルが入った箱と一緒に、ミントタブレットを寄越した。
「お得意の餃子を作ったんですか? ニンニクを入れすぎです」
光島はくっきりと眉間にシワを刻む。
「そんなに? チューブからほんの5ミリ程度しか入れなかったのに」
「では、胃の調子に心当たりは? 周防くんは胃が不調だと、口臭がします」
「光島先生とお会いするたびに、ダメージをくらってます。相棒に黙って隠密行動なんて、早くやめたい」
臭う口でずけずけと本音を言ったら、自販機で乳酸菌飲料を買って手渡された。
「何でも正直にさらけ出し、直球勝負をして褒められるのは、せいぜい20代までですよ。受け取る側の姿勢や余裕に配慮し、30代からは球種をコントロールし、ときには黙ることも必要です」
元凶の光島に諭されて、俺ははっきり不満を顔に出しながら息を吐いた。
「何でもさらけ出し、投げ出すなんて、愛情表現でもなんでもない。相手に寄りかかった甘えです。依存ですよ。隠し事のひとつくらいやり遂げてごらんなさい」
トンボ帰りする光島は、会釈して俺に背中を向け、手荷物検査のゲートをくぐって行った。
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