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幕間・宿屋にて

 灰簾が熱を出した。  西の砂漠を渡りきり、新しい国に入るころ。  標高が上がり、暑い気候が急に寒くなってきたせいか。どうもこいつは、自分の体調の悪さに鈍感なのか、体調の悪さを言っても気にしてくれる大人が周りにいなかったせいか、突然倒れることがある。  そのあたり、こちらも突然は困るし、ちゃんと言えるようにやっていかないとなと思いつつ、俺は宿の床の隅で丸くなって震えている灰簾を前に思案に暮れた。  できることなら寝台で寝かせてやりたいが、こいつは玉髄のところで囚われていたころしか寝台を使っていなかったから、寝台に恐怖を感じているようだ。そこであいつを殺したのだから、なおさらだ。 「灰簾、寝台で寝られるか?」  俺は隣に座り込み、彼に尋ねる。熱で赤い顔の灰簾は、不安げに潤んだ眼差しで見上げてきた。 「だいじょうぶ、です」  寝台に寝ることと寝ないこと、いったいどちらが大丈夫なのか、俺にはわからなかった。しかしいずれにしても大丈夫ではなさそうな、心もとない声だった。 「無理にとは言わないが、できたら体は休めた方がいいな」  俺は転がっている灰簾を抱き上げた。寝台が無理なら、せめて下に何か敷いてやった方がいいだろう。 「……あなたが」  灰簾はぎゅっとしがみついてきた。 「ん?」 「あなたが、隣にいてくれたら」  初めて会ったころはこっちの顔色ばかりを伺っていた大人びたガキだった灰簾が、こうやってわがままを言い出すのを見ると、俺はつい聞いてやりたくなってしまう。  俺の周りにいた子供は、誰も自分のために何も望まなかった。アミアータも、イラスも。誰も。  灰簾は違う。こいつは最初から生きのびるためにギラギラとした欲望を持っていて、俺はそれに惹かれて彼を拾った。  彼はずっと欲望を持っていて、それを口にする方が本当の彼なのだろう。 「じゃあ、メシ食ったら一緒に寝よう」  ほっとしたように微笑む灰簾を俺は寝台に腰かけさせる。  俺が宿の料理人に作らせた粥を持ってくると、灰簾は少し不思議そうな顔をした。見たことがなかったのかもしれない。 「熱っ」  彼は皿の中に手を突っ込んで、慌てて手を取り出した。痛そうに自分の指先を舐めている。 「大丈夫か?」  灰簾はびっくりしたような顔で粥を見ている。そういえば、できたての熱い食べ物を食べるような機会は砂漠ではほとんどなかったか。スラムでも、ろくな食事はしていないだろうし。 「ほら、これを使え」  俺はそばにおいてあった匙を取り上げて、粥をすくうと息を吹きかけた。 「こうしたら冷めるから。ほら、口開けろ」  恐る恐るといった表情で、灰簾が口を開ける。俺はその小さな舌の上に、匙を乗せた。 「大丈夫だろ?」 「はい」  灰簾は小さくうなずいた。いつもより元気がない声だ。 「つらいか? もうちょっとがんばれ」  灰簾はまたうなずいた。いい子だ。いつでも全力で生きたいと態度で示してくる。  俺はさらに粥をすくいあげると、息を吹きかける。 「ほら」  灰簾は口を開けた。  そうやって少しずつ食べさせて、皿が空に近づいてきたころ。灰簾のかすれた声がした。 「琥珀、あなたは……?」  灰簾の、灰簾石色の瞳に射すくめられて、俺はドキリとした。俺は、自分の食事はまあいいかと思っていたのだ。砂漠では、食べたいときに食べられる生活でもなかったし。  灰簾の手が伸ばされる。  彼は俺の手から匙を奪うと、粥をすくいあげて俺がそうしていたように息を吹きかけた。 「はい、琥珀」  もう、だいぶ冷めているだろうに。俺の真似をしているのかと思うと、灰簾がかわいい気持ちがわきあがって、俺はその頭を撫でたくなった。  灰簾は熱っぽい瞳で、俺をじっと見ている。  手を上げたままもつらそうで、俺は慌ててその匙をくわえた。だいぶ冷めてきた粥が喉を通る。  彼は小さく微笑んだ。こいつにしては、いつになく控えめだ。 「ありがとう、灰簾」  俺は彼の手をつかまえて、匙を受け取った。 「俺のことだけじゃなくて、あなたもちゃんと食べてください……」  消え入りそうな声で言う灰簾の頭を撫でて、俺は彼を寝台に横にした。  灰簾の手が、隣に座っている俺の上衣の裾を握った。そうしていると、本当に子供みたいだ。いつもは大人びた表情をしていることが多いのに。  俺は片手で彼の頭を撫でながら、もう片方の手で残りの粥を口にした。 「琥珀、食べ終わったら……、隣で寝てください。…俺をぎゅっとして……」  そう言う灰簾は、食べたせいか眠くなってきたのか、言葉が切れ切れになっている。  本当にこのガキは、要求が多い。でも俺はそれが好ましくて、なんでも叶えてやりたい気持ちになって、彼の額に自分の額を押しつけた。 「皿片づけたらな」  灰簾の唇が動いて、俺の唇に一瞬触れた。 「やくそく、ですよ」  濡れた彼の唇が微笑んでいる。  俺はドキリとした。  そのまま、その唇に深く口づけたい衝動を感じて。  灰簾は無意識なのだろう。あんなところで、あんなことをさせられていたから変な色気があるが、彼は子供らしい、甘えのつもりに違いない。 「約束するから、いい子で寝てな」 「はい。……ふふ、よかった。これで、あなたの夢が…見られる……」  何を言っているのやら。子供めいたまじないだろうか。 「おやすみ」  彼が眠ってから動いてやろう。そう思って俺は起き上がると、また、彼の頭を撫で始めた。  すぐに、規則正しい彼の吐息が聞こえ始める。俺は立ち上がって呟いた。 「いい夢見ろよ、灰簾」  そう、俺の夢なんかじゃなくて。 幕間・宿屋にて 終
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