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幕間・大学にて 1

 <白き氷の国>の入り口は、山の麓にある。 「入国理由は、天河先生の勉強会に出席するため。この子供二人は、新入生と大学の見学希望です」  俺は、麓の検問ゲートにいる兵士に身分証を差し出しながら言った。大陸共通語に混ざる耳慣れない訛りからして、<水の一族>の兵士だろう。  俺は表向きには地理を研究していることになっていて、昔から大学にはよく来ているから、彼も慣れたものだ。裏にいくつも押された判子に、さらに一つを追加するとすぐ身分証を返してくれる。 「これが、<大学>ですか?」  ゲートを通って山を仰ぎ見て呟くのが、砂漠で出会った火の一族の少年のニオスだ。  山の上の方が台地になっていて、<白き氷の国>はその上にある。大学があるのも台地の上だ。  俺たちは、<大学>にニオスを連れてきたのだった。彼は大学にいる<抵抗する者>の仲間たちと、ここに滞在して訓練を受ける。俺の役割は、ここにやる気のある若者を連れてくるところまで。 「見た目よりはなんとかなりますよ」  ニオスの隣で一緒に見上げる灰簾が、まるで何度も来たことがあるかのように言う。俺とここに一緒に来たのは、彼と出会って一年くらいしたころだったから、もう、二年近く前か。  <大学>に着くまでに、三日の登山が必要だ。  最初の時はまだ体も小さくて本当に大変だった。どうしてもすぐ俺と差が生まれてしまったし、彼はあまり体が強くなく、着いてから少し熱も出た。  最近灰簾はだいぶ背も伸びたし筋肉もついてきたから、以前に比べたらだいぶ楽だろうが、大変な道のりには違いがない。それでも、先輩風を吹かせたいのだろう。  そんな彼の気持ちをかわいいと思いながら、俺は灰簾の頭を撫でた。 「来たことあるからって油断するなよ」 「大丈夫です」  灰簾は少し不機嫌な顔をしてそう言った。  最近、昔より気難しくなった気がする。大人になりかけてきて、彼も色々とあるようだ。そんなところも俺から見ると、弟を思い出してかわいい気持ちがしてしまうのだが。  俺の弟には、今の彼より先がなかった。この世界で、大人になれる子供は限られている。俺についてきて、革命に参加したいというニオスは難しいかもしれない。  せめて灰簾には、その先にたどりついてほしい。 「ほら、行くぞ」  俺は不満そうな灰簾と、隣で山頂を見上げているニオスの肩を左右に抱いた。 「ああ、そうだ。坊や」  ふいに背後から声をかけられる。  検問ゲートから兵士が出てきて灰簾を呼び止めたのだ。俺はドキリとする。  灰簾はなんの問題もないはずだ。俺たちとは違って、本当に孤児なのだから。  不安げに兵士のところに戻った彼に、兵士がポケットから取り出した何かを渡した。 「よかったら、これやるよ」  男が差し出したのは、きれいな表紙の昆虫図鑑だった。使い古されたものか、ページの角が丸まっている。  灰簾は大学に出入りさせているが、暇なときに俺が基本的なことを教えるくらいで、ほとんど勉強をしたことがない。表紙を見ても、なんだかわからないだろう。まさか、疑われているのか。  灰簾は疑うような眼差しをちらりとその本に向けたあと、相談するように俺を見た。勉強はしていないが賢い子供なので、余計なことを言わない方がいいとわかっているのだ。 「あの、これは?」  灰簾を背中にかばうように前に出た俺が尋ねると、兵士は苦笑した。 「こないだ<大学>を卒業した学生が、帰る前にここに置いていったんだ。さっき坊やは熱心にそこにいる蟻を見てたから、こういうのが好きなのかなって思ってさ。ここに置いといても使わねえしな。荷物になるから無理にとは言わねえよ」  言われて初めて気づく。そういえば、灰簾は砂漠でもよく虫を見ている。 「灰簾、ほしいか?」 俺が聞くと、灰簾は小さく頷いた。 「ほしいです」  俺は灰簾に向かって頷いた。  ほしいならもらってもいい。荷物にはなるが、運ぶのは灰簾だ。  とりあえず、あやしまれていないことにほっとした。  灰簾はおずおずと手を伸ばして、その本を受け取った。 「ありがとう、ございます」  両手で大事そうにそれを抱えた灰簾は、嬉しそうに微笑んだ。  その笑顔を見ると、俺はなんだかもやもやした。  灰簾のそんな笑顔が見られる機会は、さほど多くはない。俺がもうちょっと、彼に気を遣ってやれたらよかったのだが。
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