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幕間・大学にて 4
窓の外はうっすらと月明かりで明るい。夜だった。
ニオスは大学の学生寮に入ったので、この粗末な石造りの部屋には、俺と灰簾のふたりきりだった。
今晩はここに泊まって、明日から北方に向けて旅立つことになるだろう。
灰簾は部屋の隅でずっと黙ったまま、膝を抱えて座っている。まだ落ち込んでいるようで、少し気まずい。
どのように慰めてやればいいのか。
「灰簾」
灰簾を抱き上げ寝台に座って、自分の膝の間に座らせてやる。昔は膝の上に乗せていたのだが、最近はちょっと重すぎる。
俺はそのまま彼の頭を撫でた。昔からこうすると彼はたいてい元気になった。最近はニオスもいたし、あまり、こんなふうに甘えさせてやれていなかったが。
「……琥珀」
灰簾の声はまだ暗い。何を言おうか迷って、俺はふと気づいた。
もしかして灰簾は、入り口で初めて本をもらって、浮かれていたのではないか。
灰簾は、ここに来るまでの道中でも、休憩中にあの本をじっと眺めていた。
「本がもらえて嬉しかったんだな?」
俺が聞くと、彼は小さく頷いた。
「すみません。軽率なことはもうしません」
あんな小さな中古の本を、彼がそんなにほしがっていたとは知らなかった。
「いや、俺がもっと、おまえがほしいものを買ってやればよかったな」
「いいえ、俺が悪いんです」
大人びた口調。少し、拒絶されているような。俺はまた考える。彼はずいぶん落ち込んでいる。
「灰簾、気に病むな。本を読むなってことじゃないから。好きなら、好きなだけ見ていい。ただ、周囲には気を配れよ」
「はい。ありがとうございます」
灰簾は控えめな笑顔になった。どうやら俺の考えは当たったらしい。もう本を読んではいけないと思っていたのか。
そんなことはないと伝えるために、俺は付け加える。
「灰簾。俺にも見せてくれよ。何が書いてあるのか」
彼は立ち上がると、自分の鞄の中から図鑑を取り出して俺の膝の間に戻ってきた。
「琥珀、これは砂漠に住む生き物のページです。ほら見て。これはタマムシです。さっと走ってるだけでわからなかったですけど、こんな触角があるんですね。この色はきれいだな。ああ、さっき見たと思ったのはこれなんです。砂漠のこれと同じ種類みたいなんですけど、ずいぶん小さいですね」
「ふうん。同じ種類なのか。おもしろいな」
「そうでしょう?」
図鑑を見せてきた彼から笑顔がこぼれる。少年らしい、楽しそうな表情。
まるで貴重な宝石を見たような気持ちになる。
「なあ、灰簾」
「はい」
俺はそっと、彼の腰に手を回した。だいぶ筋肉がついてきたとはいえ、まだ簡単に手が回ってしまう、少年の腰回り。
「勉強したいか?」
俺が尋ねると、彼は不思議そうな顔で答えた。
「そうですね。知らないことを知るのは、面白いかな。でもみんなそうでしょう?」
俺がそのまま彼を抱きしめると、彼も嬉しそうに俺に体を預けてきた。甘えている。
俺は、その髪に自分の顎を乗せた。ちょうど、最後に見た弟くらいの大きさだ。
「もしいたかったら、ここにずっといてもいいぞ」
彼は慌てた様子で俺を見た。不安そうな顔になっている。
「俺は足手まといですか?」
どうやら、役に立たなくておいていかれると思ったようだ。俺は言い添えた。
「そんなことはない。いつも助かってるよ。もし、おまえが勉強したかったらだ」
「でも、俺はあなたのそばにいないと。あなたとの約束が守れません」
灰簾はきっぱりと言った。
その意思の強い灰簾石色の瞳を眺める。青のような紫のような、深く静かに燃える海の底のような色だった。
そうだ。俺が間違っていたら殺してくれと。そんなことを頼んだのは俺だった。
だけどきっとそんなことを背負っていたら、さっきみたいな笑顔は見られない。そのつもりで彼を拾ったのだけれど、彼が楽しそうにしているのを見ると、自分がろくでもないことを頼んでしまった気がしてくる。
そもそも、俺は彼をこんなにかわいがるつもりはなかったのだ。あそこから出るのを、少し手伝ってやるくらいのつもりで。
役に立てばちょうどいい、そのくらいの打算。
彼を背負い込むこともできないのだし、彼が自分の道を見つけられるのであれば、そっちの方がいいだろう。
俺はきっと、もう彼が俺を殺さなくても、そのうちに死ぬから。
「おまえがやりたいことがあるなら、そうした方がいい。そもそも親が見つかるまでの話だっただろ? おまえは別にここにいるからって、ニオスと一緒に訓練する必要もない。好きなことをしろよ。おまえは、」
「関係ないから、でしょう?」
言いかけた俺の言葉を、灰簾が継いだ。そうだ、<火の一族>の事情は、彼には関係がない。彼には彼の人生が、きっとどこかにあるはずなのだ。
彼は不満げに頬をふくらませて、俺の首の下に頭を預けてきた。
「琥珀。あなたはひとりでいたら、危なっかしいです。俺が見てないと」
そう言い添える灰簾の言葉に、俺は笑ってしまう。子供のくせに、俺より年上みたいな態度だ。
今日だって、危なっかしかったのはこいつじゃないか。
そもそも彼を拾うまで、俺はずっとひとりだったのに。
「大丈夫。俺はずっとひとりで生きてきたから」
彼は大きくため息をついた。
「あなたは自分のことをわかってません」
そのまま、首に手を回されて抱きしめられた。彼の体重が俺に乗って、俺はそのまま寝台に押し倒される格好になる。
確かにそんなことは言ってみたものの、これからひとりに戻ると考えたら、しばらくは寂しいだろう。もう三年近く彼と一緒にいるのだ。それでも、彼の人生は、俺の人生ではない。
「灰簾。本を見てる時のおまえは、楽しそうだった。俺はそういうことは、やってやれない」
俺は、旅の間に長く伸びて、俺の頬に触れている灰簾の前髪を撫で上げながら言った。彼はもう一度ため息をつく。
「琥珀、あなたは俺のこともわかってませんね」
わかっていない。そうかもしれない。
彼が何に喜ぶのかもわかっていなかった。もうずいぶん一緒にいたのに。
「俺には、あなたと一緒にいることが一番大切なんです」
彼の瞳は必死な色をしていた。かわいい灰簾。こんな俺なんかに、真剣になっている。
だけど俺も、きっと革命の後まで生きてはいない。その時に、彼がひとりになるのもかわいそうだ。その前に彼が自分の人生を見つけられるなら、その方がいい。
「何もいらないので、一緒にいさせてください。邪魔はしません。もうあんな、ばかなことはしないので」
その言葉は、俺の心を揺らす。
本当は俺はおまえに、そんな、ばかなことができるような子供でいてほしいのに。
「おまえが一緒にいるのはかまわないけど、俺はおまえを幸せにはできない。なのに、おまえにたくさん笑ってほしいんだ。おかしいな」
矛盾している。自分はずいぶんわがままだと思う。灰簾に幸せになってほしいのに、自分では何もできない。大学にいていいと言ったのに、一緒にいたいと言われて、ちょっとほっとしている。
やっぱり灰簾の言うように、俺は自分のことをわかっていなくて、彼の方がわかっているのかもしれない。
「だから……、もっと、わがままを言えよ。灰簾。叶えられるかわからないけど、本くらいなら、買ってやるから」
俺が言えるのはそれくらいだった。
「琥珀っ」
いきなりだった。俺の唇に、灰簾の唇が落ちてきた。そのまま、舌が口内をまさぐってくる。
性急な動きが息苦しくて、俺は身をよじった。
「ん…っ、やめろって……苦し…っ」
「ねえっ、琥珀。嬉しいのに、苦しいです……! あなたを大切にしたいのに、ぐちゃぐちゃにしたい。ねえ! どうしたらいいですか?」
彼を押し返すと、俺の頬に冷たい感触がして、灰簾の涙が落ちてきたのがわかった。荒い息のまま、泣いている。
俺は手を伸ばして、彼の濡れた頬を拭った。
「……うん、どうにもならないな…」
本当に、どうにもならない。
いつか、そんなに遠くない未来に俺たちはバラバラになる。それはたぶん、確定した未来だ。
だからそんな、強い想いはどこにも向かわない。
やっぱり彼が俺にできるのは、俺を殺すことぐらいだった。それなら、いつだってかまわないのに。
「琥珀っ……」
灰簾は俺にしがみつくと、子供のように嗚咽しだす。俺はなだめるように彼の背中を撫でた。
何の気なしに拾った子供にこんなふうに懐かれていやじゃないなんて、まったく俺も、ろくでもない。
かわいい、かわいそうな灰簾。こんなろくでもない俺のことで泣くなんて。
だけど、俺をみんなの希望のエトナじゃなくて、なんでもないただの琥珀として見ているのは彼だけだった。
それは俺をすごく安心させた。子供のころに戻ったようで。
だから俺は彼を手放したくなくて。
もう少しだけ、こんな時間に続いてほしかった。
神様にも先生にも仲間にも、誰からも見つからない。ふたりきりの。
大学にて/終
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