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第3話
どれくらい歩いたのだろう。まだそんなに、長い時間は経っていないはずだが、真っ暗なのでよくわからない。ランタンは持っているが、それほど遠くは照らせない。
何か、変な臭いがする。硫黄か何か、火山のガスだろう。
うっすらと煙が俺を取り囲んでいる。もう火口が近いに違いない。
俺はうっかり足を踏み外さないよう、足元を見ながら少しずつ進んだ。
おやすみ、いとしご。火の子、石の子、光の子。
素敵な夢を。
かわいいはみにくい。やさしいは残酷。
愛は憎しみ、楽園は地獄。
正しいは悪魔、自由は束縛、与えるひとは奪う。
どうかこの血まみれの世界の中で、誰よりもやさしい夢を。
たったひとつの、あなただけの残酷な愛を。
……歌?
ずっと前から、ささやかれるように歌が繰り返されていたことに気づいて、俺は周囲を見回す。
もしかしてもう、火口の幻覚が始まっているのだろうか。
さっきまでの煙や臭いはすっかり消えて、霧の残る森の中に俺はいた。
歌声はだんだんとはっきりとしてきて、それは女の声だった。
俺はどうしたらいいのかわからずに、その声の聞こえる方に向かう。これで合っているのだろうか。
やがて森を抜けると、草原に出た。さわさわと風に揺らされた草の音が聞こえている。
そうしてそこに、幸せそうな家族がいた。父親と母親と、母親に抱きかかえられている赤ん坊。
歌っているのは、母親だった。美しい長い銀髪は、きらきらと太陽の光を浴びて輝いている。顔の方は、赤ん坊を見ているせいでよくわからない。俺は近くに寄ったけれど、彼らは俺に気づいていないようだった。たぶん、俺以外は幻なのだろう。
母親を抱きよせている父親の方は、すぐにわかった。艶やかな黒髪。藍晶だ。
なぜ彼が、出てくるのだろう?
「ああ、夕月。もう歌はおしまい?」
藍晶は、愛おしそうに母親を見て、そう言った。
あんな表情を、俺はつい最近見たと思う。俺を見送るときの琥珀と同じ。
「そうね、子守歌はいらないわ。もうこの子が寝てるんだもの」
「せっかく、素敵な声だったのに」
母親も顔を上げる。二人はお互いを見つめると目を閉じて、唇を重ねていた。
小鳥が遊ぶようだった触れあいはだんだんと激しくなって、母親が少しバランスを崩す。
「もう、起きちゃうでしょ。灰簾が」
笑いを含んだ母親の声に、俺は耳を疑った。
慌てて三人のそばに駆け寄る。近くで見ると、母親の瞳は夕日のようなオレンジ色だ。
母親の手の位置が変わったのが気に入らなかったのか、赤ん坊が目を覚ましてむずがり始めた。
父親によく似た黒い髪。見開かれた瞳は、青に少しだけ赤みがある。先週、身分証でしげしげと見たばかりの、灰簾石の色。
父親が赤ん坊の頭を撫でてささやいた。
「ああ、どうか父さんたちを見逃しておくれ。灰簾。僕らの愛しい、光の子」
そのときだった。
「いたぞ、女王だ! 女王、お戻りください!」
突然背後から声がして、兵士のような格好をしている男たちが家族を取り囲んだ。
兵士に手を取られた母親はいやがり、藍晶は剣を抜いている。まだ、足は悪くないようだ。
赤ん坊は声を上げて泣き出した。
藍晶は兵士たちと戦っていたが、兵士の人数が多く、取り押さえられてしまった。
「藍晶。女王と再会した<石の一族>は重罪とわかってのことか」
藍晶は血の流れる唇を噛んで黙っている。
「いや! そのひとを傷つけないで!」
母親は自分を取り押さえている兵士から逃れようと暴れていた。
「だめです、女王。<石の一族>に情けをかけるのは一度までと決まっています。最近、新しい宝石が生まれなくなっています。あなたがその男に思いをかけているからです。宝石がなくなったら、世界が滅びてしまうのは、あなたもわかっていますよね?」
「わかってる。私は帰る、帰るから藍晶を傷つけないで!」
「夕月、泣くな。灰簾が心配するだろう?」
捕らえられた藍晶はやさしい声で、母親を見て言った。母親が暴れるので、赤ん坊の声が大きくなっている。
「王子をこちらに!」
兵士たちは母親から泣き叫ぶ赤ん坊を取り上げた。
「灰簾を返して! 灰簾も藍晶も返して! 藍晶!」
藍晶は手荒なしぐさでどこかに連れ去られていく。叫び続けていた母親と赤ん坊も、違う方向に連れ去られ、草原はまた静かになった。
俺は今何を見たのだろう? 俺と同じ目の色をした、俺と同じ名前の、王子と呼ばれていた赤ん坊。
今までに経験したことのないくらい、心臓の動悸が激しい。
その上に、入れたばかりの炎の入れ墨がある。
俺が選んだ。俺が、琥珀と同じ<火の一族>になって、<光の一族>の支配から彼らを解放するって。
<光の一族>なんて俺は知らない。
もし本当に俺が<光の一族>の王子だったとしても、どうでもいい。俺は自分の親を殺したっていいんだ、琥珀を殺さないでいられるなら。
『灰簾は、もし他にも大切なひとがいて、どちらかを幸せにしたらもうひとりが不幸になるとしたら、どうする?』
あのひとが俺に聞いたのだ。そうして俺は、こう答えた。
俺は、琥珀以外のことはどうでもいいです。あの、だって、どうしようもないですよね。
他のひとだって、不幸になってほしいわけではないですけど。
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