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幕間・楽園にて 1
いつも失ったあとに、持っていたものの大きさに気づく。
灰簾がいなくなった。
もう何年も前のことなのに、俺はその単純な事実を受け入れることができない。灰簾はあの日、成人の試練を受けたいと試練の島にひとりで向かって、帰ってこなかった。
『琥珀、ちょっと疲れてますか? どうぞ』
赤いものが俺に投げられて、俺はそれを受け止める。
また夢だ。
「林檎?」
投げられた果実を見て、俺は聞いた。甘い香りがした。
灰簾は苦笑する。
『あなたがくれたような、青いのはここにはないみたいで。探したんですけど』
それは俺が昔、彼に渡したものに比べて、ずいぶん重くてどっしりとしていた。
「ありがとう」
それをポケットにしまって、俺は彼の隣に歩いていった。
古そうな、石造りの窓辺に彼は腰かけている。緑のなだらかな丘と寒々しい海。窓の外は俺の見たことのない土地だ。
最後に見た姿よりも背が高くなっている。長い手足を邪魔そうに折り曲げて、自分の膝に顔を乗せて俺を覗きこんできた。
「疲れてるのは、おまえじゃないのか?」
だらしない格好にそう思う。
『俺が疲れてるとしたら、あなたがいないからですよ』
彼の頭が甘えるように、俺の腕に預けられる。俺もひざまずいて彼の髪に自分の頬を埋めた。太陽の匂いがする。
「俺もそうだよ、灰簾。会いたい」
そんな、恥ずかしくなるような言葉を気軽に口にするのは、夢だと、俺にはわかっているからだ。
『俺もです。琥珀、あなたのやるべきことは、進みましたか?』
この数年、色々なことがあった。俺は時々、夢で彼に報告していた。
「<居留地>で戦いがあって、あそこは<自治区>になった。それと、居留地以外にもいくつか自治区ができたよ」
『それは、俺がいたころよりもいいですか?』
「少しはね。裁判所で働いている<灰>も増えて、殺される人は減った。でも、生贄は相変わらず求められている。それについて、意見を言う<灰>が少しずつ役所にも増えてはきている。そこが、なんとかならないとな」
灰簾の手が、俺の手を握った。
『あなたは? 何をしているんですか?』
「俺は、天河先生の跡を継いで、表向きは<大学>で働いているよ。最近、奥の図書館や公文書館に入ることを許されるようになった。だから、もうすぐだろう。<光>のやつらがどこにいるか、きっとわかる」
俺はつながれていない方の手を彼の肩に回して、彼の頭を撫でた。
『ねえ、琥珀。あなたがやるべきことが終わったら、俺に会いに来てくれませんか?』
「灰簾、どうやったらおまえが見つけられる? どこにいるんだ?」
方法がわかっていたら、とっくにそうしている。
彼は、顔を上げて俺の顔をじっと見つめた。海の底のような色の、強い眼差しだった。
『俺は、<楽園>に』
彼がそう言うのは初めてではなかった。何度となく、彼は夢の中で言っていた。
<楽園>。
その言葉を聞くと、胃のあたりに不快感が呼び起こされる。
灰簾は生きていないのかもしれない。それで、火口で死んだから、<楽園>にいるのだろうか?
「灰簾、どうやったら、俺はおまえのそばに行けるんだ? 俺も、火葬される必要があるのか? もしそうだったら、もう少しだけ待ってもらえるか? 光の一族を倒すまで」
俺は握られた灰簾の手を握り返して、彼にささやいた。かつて彼に自分を殺してほしいと頼んだのに、今になって待ってほしいだなんて虫が良すぎる。
それでも、俺はすぐにこの世界から、抜け出すことはできなかった。
灰簾はひっそり微笑んだ。やわらかい表情だった。
『琥珀、俺は死んではいません。あなたは死ぬ必要はない。今までどおり<光の一族>を探していれば、俺に辿り着けます』
「おまえは死んではいない。本当だな?」
彼はうなずく。これは、自分に都合のいい夢かもしれないと俺は思う。俺はただ、彼が生きていることを信じたいのかもしれなかった。
『本当です。あなたが、俺を殺すかもしれないけれど』
「どうして?」
彼が付け加えた言葉の意味がわからずに俺が尋ねると、灰簾はつないでいた俺の手を引きよせて、俺の唇に自分の唇を押しあてた。
『琥珀、俺の炎は、あなたのために消したいです。俺のすべてはあなたのものだから。現実で俺に会っても、そのことは疑わないで』
強く、抱きしめられる。力強い大人の男の力は、夢だとは思えないほど、生々しい感覚があった。最後に会ったときよりも成長している彼は、ただの俺の思い出ではなくて、今もどこかにいるような気持ちを俺に抱かせる。
「灰簾、大きくなったなあ」
彼は寂しそうに微笑んだ。
『大きい俺は好きじゃない?』
「そんなことはない。おまえが元気で嬉しいよ」
『よかった』
「灰簾、俺もおまえに俺の炎をやりたいな」
ごく自然に、俺はそう言っていた。さっき、少し待ってくれと言っていたところなのに。
やっぱり夢だから、俺はつい本当のことを口にしてしまう。
『ありがとうございます、琥珀。あなたを待っています』
嬉しそうな声で、耳元にそうささやかれる。
奪われるような口づけがあった。俺たちは黙って、しばらくお互いを探りあう。
『ねえ、琥珀、会いたい、会いたいです、』
「うん…っ…俺もだよ……」
石の床の上に押し倒された。冷たい。
それと同時に、閉じた瞼の裏にまぶしさを感じた。もう、現実で朝なのだろう。夢から覚めてしまう……。
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