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第2話

 唇に、どろりと濡れた感触を感じた。  濡れた指先だった。それが俺の唇を割って、口の中に入ってくる。押し出そうとして舌と歯でそれに触れると、急に、呼吸が楽になる。ここはどこで、俺は何をしているのか。俺はぼんやりと霞がかった頭で、今までのことを思い出そうとした。  俺は、本当にこの<楽園>と呼ばれる土地で王として扱われているらしい。さほど時が経たないうちに、俺はそれを理解した。  色々なひとが、食事だの着替えだの、<城>と呼ばれるこの石の建物に住んでいる俺の面倒を見てくれた。別に、他人に面倒を見てもらう必要もなかったのだが。  <水の一族>と<石の一族>、それから<火の一族>もここで働いていた。俺は長い間琥珀と過ごしていたから、すぐに<火の一族>とそうでないひとの見分けはついた。俺が琥珀と旅するうちに少しだけ覚えた<火の一族>の言葉で話しかけると、彼らは驚いたように俺を見て、微笑んだり立ち去ったりした。  それから、そのうちの何人か、<大臣>と呼ばれる人たちは俺に、色々な勉強をさせた。だいたいが、はやせが言ったようなことだった。  世界のしくみについて。  <光の王>が夢を孕み、<夢の残骸>である石を生むことで、世界が維持されていること。それを継続しないと、神は怒りを示すこと。今までの王が、どんなひとで、過去にどのように、神は怒りを示してきたのか。どれくらい長く生きたのか。  光の一族について。  <火の一族>の<火焔>、つまり体液は、<光の一族>にとって命綱であること。<光の一族>は長命だが、それは定期的な<火の一族>の供給があるときに限ること。  世界の地理について。  <楽園>は、火山群島の深い海の底を通らないとたどり着けない場所にあること。だから、<水の一族>が多く生活していること。<火の一族>は泳ぎが苦手だから、誰か他の一族と一緒でなければやってこれないこと。  <楽園>に来てから、俺は何度も琥珀の夢を見た。ここに来るまでに、一番<火焔>を受けていたのが彼だからだろうか。  夢の中の琥珀は本当の人間のように、体温も肌の感触も感じられたけれど、それでも俺は満たされなかった。それで、俺は本当の琥珀に会いに行こうと思って、<楽園>を逃げ出すことにした。  はやせは俺が彼の夢を見るのをいやがった。  はやせによれば、<夢の残骸>がたくさん採れるのは<愛人>との夢なのだそうだけど、<愛人>とは現実でも触れあっていないと、少しずつ記憶が薄れ、残骸も減っていってしまうのだそうだ。  だから彼女は、俺は<楽園>にいる<火の一族>の中で<愛人>を選ぶべきだ、そうして俺も役割を果たすべきだと言ったが、それでも、俺の知ったことではないという気持ちもあった。琥珀がいない場所に用はない。  日中は人目があったし、正面から戦っても人数的に勝ち目はなさそうだったから、俺は夜に脱走した。  <楽園>は俺の足でも一周できる島だった。海岸に立って、俺は勉強させられたことを思い出す。  <楽園>は深い海の底にあること。<水の一族>は泳ぎが得意だそうだが、俺だって行けるはずだと思う。  俺に勉強をさせた<大臣>たちは、泳ぐのが苦手なのは、<火の一族>だと言っていたし、俺は<火の一族>の儀式は受けたけれど、<火の一族>ではないのだから。  はやせは俺はここから出られないと言ったけれど、俺は自分で試すまでは信じられないと思っていた。試しもせずに、おびえてここに残るなんてばかばかしい。  俺は海中に飛び込んだ。<試練の島>にいたときに、俺は水中にいたけれど、その時は呼吸もできて、特に困ったことはなかった。しかし、今回は違った。はやせが触れたひたいの<しるし>。それを中心に大きな光が生まれ、全身に痛みが走った。  それでも、俺は海の底に向かおうとした。その向こうに琥珀がいるなら、俺はそこに帰るべきだったから。  俺はどこまでもどこまでも底を目指した。底はいつまでも訪れない。そうして俺は、気を失って……。 「噛むな、灰簾」  なつかしい名前を呼ばれたことに気づいて、俺はびっくりして目をあけた。  ここに来てから、俺をその名前で呼ぶひとはいなかった。それに、はやせ以外で俺に敬語を使わないひとも。  俺が目を覚ますと、なつかしいひとの顔があった。 「ベルデ……?」  それはずいぶんと昔、俺が琥珀と旅に出て最初にたどりついたところで出会った、<火の一族>の長老となるはずの青年だった。 「俺を覚えてたか」  そう言って彼は微笑んだ。 「ベルデ! どうしてここに?」

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