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第3話
黙っていた俺の唇を、やさしく琥珀の指が撫でた。我知らず、唇を噛みしめていたのがわかる。彼の指がそっと、こわばりを解いていく。
琥珀はしばらく俺を見つめて、やがて、決意したように言った。
「なあ、灰簾。……俺もここで、おまえと暮らせるかな?」
俺は思わず、琥珀を見た。彼の言うことがわからない。
「……何を、言ってるんですか?」
「居留地にも、<赤き海の大陸>にも戻らない。おまえがここを離れられないのなら、ここでおまえと死ぬまで一緒にいたいんだ」
わからない、わけではない。心の底のどこかでは、その言葉を望んでいたはずだ。
それでも、彼がそんなことを言うことなんて、ありえない。
彼が言うことは、彼の仲間への裏切りだった。
「琥珀。ここにはベルデがいます。覚えていますか。イラスの大切だったひと」
俺は、あのときの胸の痛みを思い出しながら、一言ずつ言った。
琥珀は少し目をみはったが、俺の話を聞いていた。
「あなたを希望だと呼んで、自ら生贄になったベルデです。彼はまだここで、あなたにいつか救い出されるのを待っています。ベルデだけじゃない。他の<火の一族>だってそうだ。みんな、あなたがそんなことを言ったと知ったら、ひどく怒って、傷つくと思います」
ここにいる<火の一族>は、俺ほどに世界のしくみを知らない。だからみんな、救い出されるのを待っている。
その存在は、琥珀でないといけないはずだ。
「そうだな」
「琥珀、だったら、そんな冗談はやめてください」
俺が、期待してしまうから。そんな希望は持ちたくない。
「灰簾。俺はおまえのそばにいるためなら、一族のことを捨ててもかまわない。今までのことを全部無駄にしてもいいんだ」
琥珀が、今までそのために生きてきた一族を捨てて、俺のそばにいる?
めまいがした。望みすぎて、俺はどこからかまた夢を見ているのかもしれない。
「そんなこと、駄目ですよ……」
思っている以上に、自分の声がかすれてしまう。期待するな。
しかたがないように、琥珀は笑った。俺の好きな、やさしい彼の笑顔。でもどこかつらそうな。
「灰簾、俺はやっぱり、おまえに与えたいんだよ」
信じられない。その気持ちが顔に出ていたのだろう。彼はためいきをついて、俺の頭を撫でた。
「ああ、呪いだ。本当に呪いだ。俺も自分の炎を、おまえのために消したいんだよ、灰簾」
本当に、信じられない。今まで何度か、俺からそんなことを言ったことはあったけれど、彼の優先順位はいつも、絶対に彼の一族だった。それはあまりにも当然で、俺はそれをずっと受け入れてきたのに。
「琥珀……、あの、本当に……」
声が震えた。琥珀がそんなことを。俺のために。
「おまえと同じ長さの生を生きることはできないんだろうが、それでもおまえをひとりにしたくない。こんな、つらい顔のまま」
そう言った琥珀の顔は、本当にやさしくて。俺は、何を言っていいかわからない。
琥珀の唇が俺の頬に触れて、俺はまた自分が泣いていることに気がついた。
彼はその唇と指で、俺の頬の涙を拭って、俺を抱きしめる。
やがて、俺の頬に触れていた彼の唇が、俺の唇に触れた。
口づけが激しくなって、俺は自力で起きていられず、寝台に押しつけられるように倒れた。体もぴったりと重ね合っている。
押しつけられた彼の腰に、自分の官能が刺激されて、俺は深いためいきをつく。
自分の肌がもどかしさに熱くなる。今朝みたいに怖い顔で触れられるのはいやだったけれど、琥珀に触れられたくないわけではなかった。
「ああ、琥珀……」
思わず漏れた自分の甘ったるい声に、俺は嫌悪を感じる。俺がそういうふうに感じるのも、彼の一族を自分の中に取り込みたい自分の生存本能かと思うと、ひどく醜い気がする。
「灰簾。さっきはあんなことを言って悪かった。もしおまえがいやじゃなかったら、おまえを抱いてもいいか?」
「え?」
「俺はやっぱり、おまえに与えたいんだ。もし本当に、俺がおまえを抱くことが、おまえに命を与えることになるのなら、それを許してくれないか?」
「でも、俺は、あなたの一族の、」
言いかけた俺の唇を、彼の指先がふさいだ。
「一族のことはいい。おまえの気持ちを聞きたいよ」
一族のことはいい? あの琥珀が、そんなことを言うなんて。
だけどそう言われて、俺の中には琥珀への気持ちがあふれる。俺と一緒に、床に寝てくれた琥珀。体調の悪い俺に、粥を食べさせて、俺の望むように、一緒に寝てくれた琥珀。俺に、笑ってほしいと言った琥珀。
欲しいものを目の前に差し出されて、俺はついに抵抗することをあきらめた。
「琥珀。あなたを愛しています。あなたが俺に与えたいものを、俺にください。死でも、精でも、なんでも」
裏切りでも、噓でも、──愛でも。
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