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学園生活37

「俺だってわかったら逃げられる気がしてね。…強行手段に訴えてみた」 そう言って、少しだけ微笑む。 動揺と驚きにひたすら呆然としていると、掴まれたままの腕を更に引っ張られ、秋にぶつかる寸前まで引き寄せられてしまった。 心臓の音まで聞こえてしまいそうな近さ。 …何か…言わないと…。 焦る気持ちのまま、震えそうになる唇をなんとか開いた。 「…逃げるわけ、ないだろ。…俺だって、秋と話をしないと…って思ってた…」 昨夜から明らかに避けるような行動をとっていた事を、秋が気付かないはずがない。 まず最初に言わなければいけないのは、“昨日はゴメン”って言葉。 でも、昨夜の俺の言葉を聞いて秋がどう思ったか考えると、怖くて何も言い出せない。 もし、もうお互いに関わりあうのはやめよう…とか言われたら、俺は…。 どうしたらいいのか悩みながら唇を噛み締めた時、フッと宮原に言われた言葉を思い出した。 …今まで秋が俺にしてくれた事や優しさは事実なんだ…って…。 俺が秋の事を友達だと思っているなら、それでいいだろ…って…。 それを思い出した瞬間、フッと心が軽くなる。変に誤魔化そうとしないで、素直に言えばいい。 「あの、昨日は…」 「昨日はゴメン」 「…え?」 意を決して顔を上げて謝ろうとしたら、それを遮るように秋が先にその言葉を口にした。 驚きに目を見開いて秋を見ると、困ったような…辛さを堪えているような、そんな複雑な表情を浮かべている …なんでそんな顔…。 「…そんなに見つめられると緊張するんだけどな」 困ったように笑ってそう言った秋は、俺の手を掴んでいる方ではないもう片方の手を目の前に伸ばしてきた。 「…な…に…?」 視界が暗くなると同時に、顔上部を暖かな何かに覆われる。 …秋の手…。 目元を覆われてしまったせいで何も見えない。 「秋?」 「…深に見つめられると落ち着かないから、今は少し我慢してくれる?」 優しく穏やかな口調で言われて、少しだけ緊張が解けた。 俺も、秋の姿が見えていると緊張していたから、お互いにこれでちょうどいいのかもしれない。 肩の力が抜けて、口元から緩く溜息が零れる。その瞬間、目の前でクスリと笑う声が聞こえた。 視界が不自由な分だけ、気配と音に敏感になった感じ。 見えないまでも少しだけ顔を上げると、なんとなく困っているような雰囲気が漂ってくる。 「…なに…?」 「…ん?…別に」 何かをはぐらかすような秋の返事に、俺も何も返せずに口を閉ざした。 暫く続く沈黙。 この沈黙は居心地が悪いものではないけど、ずっとこのままでいるわけにもいかない。 そう思って口を開こうとしたら、その気配を察したのか先に秋が話し出した。 「昨日、深に言われて色々と考えたんだ。でも、いまだに言われた事の意味が上手く理解できてない。ただ、今までの俺の態度や言動が原因だって事はわかるし、なんとなく自覚はある。…だから、ゴメン」 …自覚がある…?それってやっぱり、内側に踏み込むなという意味に捉えた俺の考えは間違ってないってこと? 自分の中で結論付けられた答えに、呼吸が詰まったように苦しくなった。 「…それって、今まで秋が言った事は本気で言ってたって事で、…関わってほしくないとか、そういうのも全部…」 「…全部、本気だよ」 躊躇いながらも、しっかりと頷いた秋の様子が感じ取れた。 わかっていながらも俺を突き放すような言動を取ったって事は、やっぱり薫が言ったとおり壁を作ってたという事…。 ハッキリと本人に言われると、さすがにヘコむ。 でも、これでやっと秋の事が少しわかった気がする。 本心からの言葉なのか?とか、作られた言葉なのか?とか、もう悩まなくていいんだ。 ある程度以上の部分まで踏み込まなければ、普通に友達としてやっていけるという事。 普通の人が誰でも持っている心の中の壁。それが秋の場合は少し厚いというだけの話。 寂しいけど、こればかりはしょうがない。他人が無理やり入るべき場所じゃないのだから。 ようやく自分の心に整理がついた。 「俺もちょっと色々あって秋に八つ当たりした。本当にゴメン。…知り合いに相談したら、それはお前の勝手だって叱られたんだ」 「知り合い?」 「…あぁ…、後輩だけどな」 「………」 何故か、口を閉ざした秋の雰囲気が微妙に硬化した。 そして、掴まれていた腕が離されたかと思ったら、その手が腰に回されて優しく抱きしめられ、それと同時に目元を覆っていた手も離れる。 突然抱きしめられた事にも驚いたけど、同時に自由になった視界にも気を取られて、何をどうしていいのか混乱したままただ立ちつくす。 「抵抗しないの?」 「…抵抗したら、離してくれるのかよ」 「いや、それはない」 「何それ」 あまりにハッキリした即答に思わず笑ってしまった。 普段は優しいけれど、こういうところは何気に俺様だ。 笑った事により、緊張していた体の力が抜ける。ようやく自分の気持ちの置きどころが決まった事で、心にも余裕が出てきたみたいだ。 そうなると、今のこの抱きしめられているという謎の状況が物凄く恥ずかしくなってくる。 もぞもぞと身じろぎすると、背中と腰に回された腕が少しだけ緩められ、秋との間に僅かな空間が出来た。でも、完全に離してくれるつもりはないらしい。 …どうしたら離してくれるんだ。 「後輩って、まさか宮原じゃないよね?」 視線をうろつかせているところに聞こえた覚えのある名前に、ハッとして顔を上げた。 絡みつく秋の眼差しは真剣なもので、ドキッと鼓動が跳ね上がる。 「…宮原だけど…。なに…?」 「なに?じゃないだろ。危機感を持てって前に言わなかった?…もしかして、もう忘れた?」 呆れたような溜息と共に、制服の上から首と鎖骨の間を指でトンっと突かれた。 その行動で思い出す。図書室で宮原に付けられたキスマークを秋に見つかった時の事を。 ……今にして思えば、あれくらい可愛いものだ。 「余裕だね」 「…えっ?」 「前はキスマークが付いてるって言っただけで動揺してたのに、今日は平然としてる」 「それは…っ、その…、過去の事は今更どうとも思わないというか…」 「………」 秋の不審気な眼差しが痛い。 昨夜の宮原との事は絶対に秋には言えない。もし知られてしまったら、今の微妙な友情に悩むどころか、軽蔑されて話す事さえもままならなくなるだろう。 心臓がなおさら鼓動を激しくする。抱きしめられている今の状態では、いつこの焦りに気付かれてしまうか気が気じゃない。 咄嗟に秋の胸元に手を置いてグイッと押し離すように力を込めた。 「もう、離せよ。そろそろ行かないと」 誤魔化すようにいったその言葉は、忙しい秋には覿面の効果を成した。 「……そうだね」 溜息と共に呟き、腕がゆっくり離れる。 開放されることを望んだのは俺なのに、秋の体温が離れた瞬間に何故か寂しく感じて…。 気付けば秋の腕の中にいる事を心地良く感じていた自分に驚いた。 どうも最近女々しくなっている気がして自己嫌悪が湧く。情けない。 表には出さないように内心でひっそりと落ち込んでいると、秋の手が優しく背に当てられた。 え、なに?なんて戸惑う間もなく方向転換を促され、流されるように扉へ向かって一緒に歩き出す。 「変な寄り道はしないで、しっかり寮に戻るんだよ」 「わかりました先生」 教師みたいな口調で言う秋に合わせて返事をしたら、可笑しそうに笑われてしまった。 そのまま空き教室から廊下へ出た途端、今まで聞こえなかった人の声が聞こえてきて、何故かホッとした。 現実に戻ってきたような変な感じ。 これから職員室に用事があるという秋とはここでお別れ。俺はひとり、寮に向かって歩き出した。

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