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第三章 夏休み1

†  †  †  † 8月上旬。 アスファルトから陽炎が立ち昇るほど暑い今の時期、外とは裏腹に、屋内はどこもエアコンがきいていて寒いくらいだ。 室内温度24度、外気温度37度。 窓ガラス一枚を隔てただけで13度も気温が違う事が、なんだかとても不思議に思える。 壁一面の大きなガラス窓の前に立って緑豊かな庭の景色を見ながら、日本人って贅沢だな~なんてのん気に考えている俺は、夏休みに入ってから今日までの日々を課題との格闘に費やしてきた。 おかげで、あとはのんびり過ごせるところまできている。 でも、この家にいる限り、いろいろと連れ出されるのは目に見えてる。 「…ハァ…」 せっかくの夏休みなのに、学校にいた方が自由があるってどういう事だよ。 ガラス越しに見える大きな向日葵に心癒されながら深い溜息を吐いていると、背後で静かにドアの開く音が聞こえた。 振り向いた視線の先には、3兄弟の真ん中である香夏子姉が、少しだけ開けた扉の隙間から顔を覗かせていた。 「香夏子姉、どうしたの?」 なんとなく元気がない様子に、自然と心配口調になる。 腰まである柔らかそうな茶色い髪も、フランス人形みたいにパッチリとした瞳も、今日はいつもの元気を失っているように輝きがない。 声をかけると、それが合図だったかのようにゆったりした動作で室内に入ってきた。 歩く度にフワリと揺れる、淡い水色を基調としたワンピース。 それと同時に、香夏子姉のつけているフローラル系の香水の香りが微かに優しく広がる。 俺のつけている香水がダージリン系のものだから、近くに並んでも違和感なく混ざり合う。 こんなところも、さすが仲の良い姉弟といったところか。趣味がピタリと合う。 「深…。さっきお父様から聞いたけれど、貴方のエスコート役を咲哉君がやるって本当?」 …その事か…。 香夏子姉は、俺が咲哉を苦手だと思っている事を知っている。 だからこそ、その話を聞いて心配して探しに来たんだろう。 相変わらず優しいな、この人は…。 香夏子姉の思いやりに、自然と表情が緩んだ。 自分だって政略結婚の話をあっちこっちから押しつけられて大変なはずなのに、そんな事を微塵も感じさせずに俺の心配をする。 一番上の宏樹兄もそうだけど、この人達はもう少し自分に甘く生きてもいいと思う。 「…深…?」 香夏子姉を見つめてそんな事を考えていたら、返事が返ってこないのを不思議に思ったのだろう、心配そうに呼ばれてしまった。 「あ、あぁ…ゴメン。ちょっとボーっとしてた」 ハッと我に返って苦笑いを浮かべた俺に、香夏子姉もクスリと笑う。 「咲哉君の事、宏樹兄さんも心配してたわよ?『パーティーに出席する事自体が深の負担になるだろうに、よりにもよってエスコート役が咲哉さんか…』って」 「俺は大丈夫だよ。…そんな事より、宏樹兄と香夏子姉の方が大変だろ?2人とも、もっと自分の事を考えろよ。俺はどうとでもなるから」 「…深…」 俺の心が揺らいでいない事を感じ取ったのか、香夏子姉の顔から不安なものが消えた。 それを確かめてから「大丈夫だよ」とはっきり頷いて見せると、ようやく笑顔で頷きが返ってくる。 「少し会わない間に、大人になっちゃったみたいね。…頼りにしてるわよ、深」 言い終わると同時に、頬にフワリと親愛のキスを送られた。 久し振りだったせいか妙に照れてしまい、どういう表情をしていいのか戸惑っている内に、香夏子姉は優雅な足取りで部屋を出ていってしまった。 思わず照れ笑いを浮かべながら、その後ろ姿を見送る。 扉が閉じられた瞬間にホッと息を吐いて背後のガラスに寄りかかると、自分以外誰もいない室内を見渡した。 数ヶ月前までは、この家が静かだとは思っていなかったし、寂しいと思った事もなかった。 けれど、月城から帰ってきてから、この家の中がやけに静かに感じられて仕方がない。 ホームシックならぬスクールシックか? 自分で考えたものの、あまり聞いたことがないその単語に笑いが滲む。 「…情けないなー」 ボソッと呟いた言葉が、静かな室内に溶けこんで消える。 その時、コンコン…と、控えめなノックの音が鳴り響いた。 個人の部屋ではない場所でこんな風にわざわざノックするなんて、家族間ではありえない。 誰だろうと不思議に思いながら、ガラスに寄りかかっていた体を起こして「どうぞ」と声をかけると、軽い会釈と共に黒いスーツを着た小柄な男性が入ってきた。 父さんのいちばんの側近の平原(ひらはら)さんだ。秘書的役割もこなしている。 あまり変わらない表情の中にも誠実さが見え隠れする、俺も信頼している人物。 そんな人が何故ここに? 「失礼します。社長から、明後日のパーティーについて深様に段取りを説明するように、と」 …あぁ、なるほど…。跡取ではないとはいえ、俺の行動もそこそこに重要視されるって事か。 疑問が解ければ話は早い。早々に平原氏の元へ歩み寄る。 「わかりました。ここだと落ち着いて聞けないから、俺の部屋でもいいですか?」 「はい。私もその方が助かりますので、お邪魔させて頂きます」 その的確な判断に思わず表情が緩んでしまう。 他の人間だと、こうはいかない。 『私なんかがお部屋にお邪魔しても宜しいのですか?』 と、何を一番最優先に考えなければいけないのか判断ができず、遠慮ばかりが先だって話が先に進まない。 その点、平原さんは、無駄な行動を嫌う父さんの側近なだけあって、判断力も高いから安心だ。 遠慮をする時としない時を確実に見極めている。 内心で平原氏の対応に感心しながら、開けたまま待ってくれている扉から出て、そのまま並んで歩き出す。 時間を無駄にしないように、まずは歩きながらでも大丈夫な説明を受けながら自室に向かった。 †  †  †  † side:黒崎 「秋様。明後日のパーティーで着用するスーツが届きましたので、試着をお願いできますか?寸法の変更が必要な個所はすぐにお直しして下さるそうです」 「わかりました。この資料に目を通したらすぐに向かいます」 「はい。宜しくお願い致します」 自室のいちばん奥に設置されているデスクで書類を眺めたまま、家政婦の松本(まつもと)さんに了承の意を伝える。 彼女はすぐさま一礼して部屋を出ていった。 ……毎年恒例、夏のパーティーか…。…くだらないな…。 狐と狸の化かし合いの場としか思えないそれを思い出して、深い溜息が零れる。 夏休みになると同時に家に帰ってきてから今日までの間、一日も休む事ができない。 昨日、父親に呼び出されて何かと思えば、 『黒崎家は、基道(もとみち)ではなくお前に継がせるつもりだ。それをしっかり心得ておけ』 などと軽く言ってくれるし…。 次男の俺が継ぐなんて、兄さんにしてみれば面白くないはず。 ただでさえあまり仲の良い兄弟じゃないのに、これで益々犬猿になるな…。 考えれば考えるほど気が重くなる事ばかりだ。 だからといって、遠慮するつもりもない。 長男だというのに後継ぎとして選ばれなかったのは、兄さんの力が及ばなかったからだ。 それには同情する気も起きない。 俺には俺の人生があって、それは絶対に譲れない一本の道。 例え兄さんにでもその道を譲る事はできない。 そして、自分の信じるものを見失わない事。 信念を貫き通せなければ、それは未来へ向かう道ではなく、ただの迷い道となるだけ。 ……それがわからない人間には、この黒崎家を継ぐ事はできないだろう…。 もう一度だけフッと短く息を吐き出して、手元の資料を机の上に置いた。 「…仕方がない、衣装合わせに行くか…」 首を長くして待っているだろう松本さんの為にも、とりあえず他の事は後回しにして衣裳部屋へ向かうべく、椅子から立ち上がって自室を後にした。 side:黒崎end

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