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夏休み8

カチャリ 背後で聞こえた扉の閉じる音に、何故か変な緊張感が漂う。 秋についてホールから出たあと、ロビー脇の通路の先にある控え室に来た。 前を行く秋が先に入るのかと思っていたのに、扉を開けて「どうぞ」と促されてしまえば先に入るしかない。 逃がさないぞといわんばかりの状況。――と思ってしまうのは、どこか気まずさを感じてるからだろうか。 部屋の中央まで足を進めたものの、怖くて後ろを振り向けない。 そして秋は、閉めた扉の傍から動く様子がない。 お互いの間に流れる沈黙が居たたまれなくなった時点で、思い切って振り向いた。 「………」 「………」 …秋なのに秋じゃないみたいだ…。 改めて見た秋の姿が本当に格好良くて、何かを言おうとしたはずの口から言葉が出てこない。 前髪を上げて額を出していると、凛とした瞳が更に強調されて意思の強さが伝わってくる。 さっきも思ったけど、いつも以上に大人っぽい。 そんなふうに秋に見惚れていて、ふと気が付いた。 俺も同じように秋に見つめられている事に…。 「…見すぎ」 「ダメ?」 「ダメっていうか……、そうやって秋に見られるとなんか居たたまれなくなるから見るな」 これ以上秋に凝視されていたら、気恥ずかしくて顔に血が上りそうだ。 でも、言った数秒後に気がついた。これではまるで、“見つめられると照れるから見ないでくれ”って言ってるようなものだ…と。 案の定、それは秋も思ったらしく、目を瞬かせた後に小さく笑われてしまった。 「深は元気かな…とか、会いたいな…なんて思っていた矢先にそんな姿で目の前に立たれたら、誰だって見つめると思うけど?」 「そんな姿って…、なんだよ」 笑いを含んだ眼差しでそんな事を言われてしまうと、多少の不安が出てくる。 そんなに変な恰好じゃないと思うけど、実はもしかして似合ってない? こういう場を避けてきたせいで着慣れていないのは確かだ。自分ではとりあえず様にはなっていたと思ったけど、俗にいう“服に着られている”ような感じに見えるのかも? もしそうなら恥ずかしい。 頭を抱えたい思いで自分の姿を見下ろしていると、フッと目の前の空気が動いたような気がして顔を上げた。と同時に、いつの間にか近づいていた秋に顎先を優しく掴まれる。 …え? 驚いている間に、掴まれている顎を少しだけ上に持ち上げられ、秋を見るように仕向けられた。 そんな事をされればもちろんの事、秋としっかり視線が絡む状態になるわけで…。 端正な顔立ちを間近で見る事になり、じわりと顔が熱くなる。 「は…なせよ…。近い」 顎を掴んでいる秋の腕を振り払おうと手を伸ばすも、逆にその手を掴まれて引っ張られてしまい、離れるどころか益々近づくお互いの距離。 さっきよりも更に近くなったことで、体温までもが伝わってくる。 心臓が痛いくらいに鼓動を刻む中、真剣な眼差しに見つめられて息を飲んだ。 夏休みに入るまでは毎日身近にあった秋の纏う柑橘系の香りがふわりと漂う。 心の一部はざわざわと落ち着かないのに、嗅ぎ慣れた匂いに懐かしさと安心感を呼び起こされて、ついついフラリと近づきたくなってしまう。 ……――って、待て、しっかりしろ! フラフラと秋の肩に額をつけてしまいそうになった瞬間、我に返って慌てて身を引いた。 あ…危ない…。なんだよこの求心力。パブロフの犬か俺はっ。 無意識の行動に焦っている俺を見て、秋は揶揄混じりの笑みを浮かべる。 「深に会いたいと思ってた…って部分はスルーなんだ?」 「は?!…い、いや…、それは、スルーしたとかじゃなくて」 このままだと頭が爆発してしまいそうで、思いっきり秋の手を振り払って数歩後退った。 秋は…というと、そんな俺を見て何やら溜息を吐いているけれど、何がなんだかわからなくて溜息を吐きたいのはこっちの方だと言ってやりたい。 けれど、 「……深が天原家の次男だとは…、知らなかったな。苗字からして何か関係があるのかもしれないとは思っていたけど、まさか直系だったとはね」 「…あ…」 秋のその一言で、一気に頭が冷えた。 自分から言いふらすような事でもないし、俺自身、学校生活に天原の名前なんて関係無いと思っていたから、その辺は深く考えていなかった。 俺だって、秋が黒崎コンツェルンの人間だと知って驚いた事を思えば、俺が天原家の人間だという事を伝えておく必要があったんじゃないか? 今更ながらに気付いた事実。 この名前が周囲に対してどれほどの威力を持っているのか。わかっていたはずなのに、それが嫌でこういう場を避けていたくらい実感していたはずなのに、…親しくなりたいと思っていたこの友人に告げずにここまで来てしまった。 敢えて隠していた訳じゃないけど、そうとられても仕方がない。 軽く握った拳で自分の額をコツコツと叩き、不甲斐なさに落ち込む。

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