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夏休み13

†  †  †  † 「あ…れ?…香夏子姉?」 さっきまで隣にいたはずの相手が忽然と姿を消してしまった。 人混みでゴチャゴチャしているロビーを見回す。すると、その人混みの中から現れた探し人の姿。 「どこに行ってたんだよ。突然いなくなるから焦った」 「ごめんね。どうしてもパンフレットが欲しかったから買ってきちゃった」 そう言って微笑む香夏子姉の手元には、結構な厚みのパンフレットが抱えられている。 …微妙に天然なんだよな…。 買いに行くなら行くで一言言ってからにしなさい!と言いたい気持ちを溜息と共に堪えている俺とは対照的に、本人は嬉しそうにホノホノとした笑みで周囲の人達を眺めている。 今日は、待ちに待ったローゼンヌの日本公演初日。 会場に着くと、嫌が応でも周りの熱気に盛り立てられる。 たぶん香夏子姉も気持ちがかなり昂ぶっているのだろう…、いつもよりも更に行動がふわふわしている。 左腕に着けている時計を見れば、もう開演まで30分をきっている事がわかった。 「そろそろ席に行かない?」 「そうね、行きましょう。席についたら公演が始まる前にパンフレット見ておかないと」 そう言って先に歩き出した香夏子姉の後を追い、二人でホール内に足を踏み入れた。 ホールに入るとまず最初に、近代的な外観とは違う内部の重厚な雰囲気に驚かされた。 建物の外観からロビーまではコンクリートの壁にシルバー系のメタリックな装飾だったのに、ホールの中は温かみのあるダーク色の木目調の壁に、くすんだ赤の絨毯が敷かれている。 形は違うけれど、雰囲気的にはオペラハウスのような感じ。 「席、見つけたわよ」 歩きながら興味深くホール内を見渡しているうちに香夏子姉が席を探してくれていたらしく、横方向に腕を引っ張られた。 何も考えず香夏子姉に連れられて席に着いたけど、 …この席、一番良い場所じゃないか? チケットがS席となっていたからある程度場所の予想はしていたものの、想像以上に良い場所で…。喜ぶというよりも、こんなチケットをあっさりとくれた人物に今更ながらに恐縮してしまう。 席に座ると、さっそく隣でパンフレットを開く香夏子姉。 女の人ってパンフレット好きだよな…。 俺もローゼンヌに興味はあるけれど、パンフレットを買おうとは思わない…かな。 舞台が見られればそれでいい。 出演している役者名までしっかりと見ている香夏子姉を感心して見ていると、公演中に関する注意のアナウンスが流れ始めた。 それに伴って、徐々にざわめきが消えて行くホール内。 激しかった人の出入りも、気付けばだいぶ落ち着いていた。 そしてその数分後、開演のブザーが鳴り響くと同時にホール内の照明が落とされ、待ちに待った待望の舞台の幕が開かれた。 主役は、とある村の貧しい少女。 村にある一本の大きな樫の木の下で、幼馴染の少年と将来を誓い合うところから物語は始まる。 少女が16歳になった年、隣国が自分達の領土を広げようと、少女のいる村一帯の地域に攻め込んできた。 もちろん、幼い頃に少女と結婚を誓いあった幼馴染の少年も、17歳という年齢の為に戦争にかりだされる。 その少年にはたった一人だけ、親友と呼べる友がいた。 幼い頃から少年を助け、励まし、時には喧嘩もし…。 少年には、結婚を誓った少女と同じくらい、なくてはならない存在だった親友。 二人は出兵し、共に戦い、助け合い、互いの命を救いあった。 1ヵ月後、ようやく戦争に終了の兆しが見え始めた時、それは起きた。 戦場で少年に向かって放たれた矢。それに気付いたのは、すぐ近くで戦っていた親友だった。 咄嗟に体を割り込ませ、少年の代わりに矢に撃たれて倒れる体。 少年が気付いた時には、もう親友の息はなかった。 そして、数日後、戦争は終わる。 少女は、打ちひしがれる少年を慰め、癒し、そして愛し…。 時は巡って少女が17歳になった時、幼い頃に結婚を誓い合った樫の木の下で皆に祝福されて祝儀をあげる二人の姿。 幸せそうな二人の姿があるその空の上、笑顔で見守る亡き親友の姿が映し出される…。 そこで舞台の幕は閉じた。 ……――「以上を持ちまして、本日の公演は全て終了致しました。ご来場、誠に有難うございました」 公演終了のアナウンスとともに、暗かったホール内に灯りが戻る。 周囲の人達は徐々に立ち上がって帰り支度を始めているけど、俺は舞台を見つめたまま動くことができなかった。 初めて見たローゼンヌの舞台が、まさかこれほど華やかで五感の全てを引き付けるものだとは思わなかった。 脚本、音楽、美術、照明。 …そして役者…。 どれ1つとっても最高としか言えない。 幕が上がってから下りるまで、その世界に完全に引き込まれてしまっていた。 あちらこちらで、ハンカチで涙を拭う女性客の姿も見受けられる。 「…深…、深!…起きてる?」 「……あ、あぁ…ゴメン。あまりの凄さにボーっとしてた」 香夏子姉に腕を揺すられて、やっと現実に意識が戻ってきた。 そんな自分に苦笑いだ。 まさかここまでハマるとは思わなかった。 周囲を見ると、帰る人もいるけれど、まだ半分くらいの人達が興奮したようにお互いに感想を言い合っている。 それを見て、もう少しここに座っていても大丈夫そうだと確認してから、香夏子姉に片手を差し出す。 さっきのパンフレットがどうしても見たくなったからだ。 「さっきのパンフ、俺にも見せて」 「深がこういうのを見たがるなんて珍しいわね。よっぽど気に入ったのね」 さっきまで目に涙を溜めていた香夏子姉は、もうその顔に楽しそうな笑みを浮べながらパンフレットを差し出してくれた。 「ありがとう」 短く礼を言って受け取り、早速ページを開いて中身に目を通す。 俺が見たかったのは、まず、こんな凄い劇団のオーナー兼演出家の名前。 「え~っと…、あ、あった。オーナー兼演出家の……鷹宮雅也(たかみやまさや)?」 ……あれ?…鷹宮?…。 フッと頭に鷹宮さんの顔が浮かぶ。 …まさか…な…。 同性同名ならともかく、同じ苗字だけならいくらでもいる。 次に役者プロフィールのページを開いた。 1人だけ、どうしても気になった人物がいた。 それは、主役少年の親友役を演じた人物。 話の役どころでは結構重要な立場を演じていたけれど、全体を通すとそんなに出番は多くなく、舞台が終わってみれば、脳裏に浮かぶのはやはり主役二人の姿だ。 けれど、俺にはその親友役だけが妙に心に残った。 派手な動きはなく、重要な役の割には、主役の二人を目立たせるために衣装も地味。 それでも、その役者の動き1つ1つがとても丁寧で…、まるで、役者が演じているというよりも、本人そのもののような気にさせられた。 見ている最中、目を奪われてしょうがなかった役者だ。 「あ、いたいた。……Kyo…?」 他の役者は全てフルネームで載っているのに、なぜかこの役者だけ違う。 知りたかった事を知る事が出来ないジレンマに思わず唸ってしまいそうになる。 その時、横にいた香夏子姉が席から立ち上がった。 「深、そろそろ行くわよ?」 「あ、あぁ、ゴメン」 パンフレットを真剣に見過ぎていたらしく、香夏子姉に言われて顔を上げると、気付けばホール内にほとんど人はいなくなっていた。 急かされながら椅子から立ちあがって歩き出したけど、結局、家に帰るまでその役者の事が頭から離れなかった。

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