105 / 226
学園生活Ⅱ-15
どこか納得できないものを感じつつ、目の前にある艶やかな白の蓋をそっと開けた。
次いで、鍵盤の上に被せられている緋色の布を取り払う。
「……オイ…」
布を取り払った瞬間、今度こそ思考回路がフリーズした。
なんで白鍵と黒鍵の配色が逆なんだよ…。
ボディとは裏腹に、鍵盤の大部分は真っ黒。その見事なギャップに驚きを隠せない。
「白鍵部分が黒いって、これ象牙だろ?…これだけの量をわざわざ染色したのか?」
黒い鍵盤を人差し指で撫でると、象牙特有のサラリとした感触が感じられた。
呆れながらも好奇心に押されて両手を伸ばし、何個かの鍵盤を連続で押さえる。
やはり軽い。さすがコンサート用だ。
緩みそうになる頬を引き締めながら、試し弾きの要領で即興の簡単なメロディーを奏でてみた。
「……よく伸びる…」
透き通るような芯の強い音が、音楽室内に響き渡る。
たぶん、気温や湿度も調整されているだろうこの部屋。ここまでしてもらえれば、ピアノも本望だろう。
丁寧な扱いに微笑ましい気持ちが湧き起こってきて、顔がニヤけた。
「王子様」
「…ッ…え…?」
遠くの方から聞こえた声に勢いよく振り向く。
いつからそこにいたのか…、階段状に並んでいる席の最後尾に人影を見つけた。
音響を考えて造られた部屋だけに、遠くてもしっかりと聞こえる。
呆然と見つめているうちに、その人物は小さな笑い声を上げて椅子から立ち上がり、ゆっくりとした足取りで下りてきた。
「王子様の微笑み、…って感じだな。何かいい事でもあった?」
「…夏川先輩…」
ある程度の距離まで近づいてきた相手の顔がわかった瞬間、胸の内で僅かに緊張が走る。
この人は、苦手だ…。
ゆっくりと、急ぐ事のない足取りで歩いてくるその姿は、さしずめどこかの貴族のよう。
俺よりもよっぽどあなたの方が王子様っぽいです、なんて事は口には出せないけど、絶対に他の人も同じ事を思うだろう。
「そんなに見つめるなよ、お前が俺に惚れた…なんて事になったら、京介に殺される」
「…ありえないから大丈夫です」
「へぇ~、なかなか言うようになったな」
横まで来て、からかうような笑みを含ませた視線で見下ろしてくる。
その視線が一瞬だけ鍵盤に向けられ、また俺に戻ってくる。
「ピアノ、弾けるんだな。今度子守唄でも弾きに来いよ」
「弾きに来いよ…って、ここに…ですか?」
まるで夏川先輩の部屋みたいな言い方ですね。
そう言いたい俺の気持ちが伝わったのか、呆れたようにハッと笑われた。
「なんだお前、知らないのか?」
「え?」
「ここは俺専用の昼寝部屋。この学園の生徒ならみんな知ってる。…知らないのはお前だけだ」
「昼寝部屋って、…だってここ、音楽室ですよね?」
夏川先輩から視線を外し、広い室内をもう一度見回す。
譜面台がセットされた席が階段状に並ぶ光景。
ホールと呼びたいくらいに広いとはいえ、音楽室以外の何物にも見えない。
「ものわかりが悪いな、王子様。この第一音楽室は、副会長である俺の昼寝場所として暗黙の了解になってる場所なんだよ」
「…そんなの、あり…ですか…」
目を瞬かせて茫然とする。呆れて物も言えない。
生徒会がそれほどまでに強い権力を持ってるなんて、どういう事だよ。
「入って来たのが他の奴なら、今ごろ蹴り出してるぞ」
「俺は、蹴り出されないんですか?」
「お前は京介の大切な相手だからな。俺も大切に扱うさ」
ニヤニヤと笑いながら言われても、全然説得力がない。
「大切な相手ってなんなんですか」
なんだか激しく疲労感が襲ってきた。
先輩から視線を外して溜息を吐きながらも、一つだけ気付いた事がある。
なぜか夏川先輩は、いつも鷹宮さんを一番に考えて行動しているみたいだ…と。
もちろん、大切な友人の事を考えて行動するのは誰にでもある事だと思う。
でも、夏川先輩の鷹宮さんに対するそれは、普通よりも過剰に思えて仕方がない。
「何をそんなに考え込んでるんだ?」
「…え…?…あ…っ」
突然視界に先輩の顔が飛び込んできたせいで、危うく後ろにひっくり返るところだった。
咄嗟に先輩の腕が背中に回されたおかげで助かったけれど、お礼は言わずに眇めた目でジーッと見上げる。
…元はと言えば夏川先輩のせいだからな。
そんな俺の態度が気に入らなかったのか、片眉を引き上げて不満気な顔をされてしまった。
「助けてやったのに睨むって…、いい性格してるな、お前」
「先輩が覗き込んでくるからでしょう!」
わざとらしく肩を竦めて溜息を吐いている姿に、思わずつられそうになる。
溜息を吐きたいのは俺の方だ。
色々と飲み込んで夏川先輩を見上げると、その手が俺の座っている椅子の背もたれに置かれた。
「で?何をそんなに考えてたんだ?」
「あー…、え~…っと、夏川先輩は、なんでそんなに鷹宮さんを第一に考えているんだろう…って」
咄嗟に答えたせいで、なんだか頭の悪そうな返事になってしまった気がする。
それでも先輩は、俺の質問を馬鹿にするでもなく、それどころか黙り込んでしまった。
鷹宮さんもそうだけど、この人も真顔になると近づきがたい雰囲気を醸し出す。
こういう素の顔を見せるという事は、俺が質問した内容はあまり答えたくない類のものなんだろう。
そう理解した。
「あの、先輩に聞かれたから言っただけであって、その答えを知りたいというわけではないですよ」
人には、簡単に言える事と言えない事がある。それを無理に聞こうとするのは、とても傲慢だ。
2人の関係を不思議には思うけど、俺にそれを聞く権利があるとは思わない。
この話はこれで終わりにしようと、椅子から立ちあがって緋色の布を鍵盤に被せた。
壁に掛けられている大きな時計で時刻を確認すると、もう昼休みの終了の頃合いを示している。
そろそろ教室に戻らなければ、確実に遅刻するだろう。
だから片付けを始めたのに、ピアノの蓋をそっと閉じた瞬間、後ろから伸びてきた手に腕を掴まれてしまった。
もちろん犯人は一人しかいない。
ともだちにシェアしよう!