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学園生活Ⅱ-19
「俺しかいないから、遠慮しないで入って」
その言葉にホッと肩の力が抜けた。秋以外に人がいないのなら、気にする事は何もない。
「失礼します」
「はい、どうぞ」
かしこまったやり取りに笑いながら室内へ足を踏み入れると、数個の机とその上に置かれた大量の書類、そしてパソコンが視界に入った。
生徒会室よりも華美に見えないのは、応接セットが置いてないからだろう。
背後で扉が閉まる音と同時に、秋が歩き出す足音が静かな室内に響く。
向かう先は奥の机。扉からいちばん離れている位置にあるそこが、秋の指定席らしい。
「俺は何を手伝えばいい?」
「何も」
「…な…、え…?」
手伝えと言われて芹沢先輩に連れてこられたのに、何も…ってどういうこと?
意味がわからず目を瞬かせながら秋を見ても、当の本人は楽しそうにニコニコと笑ってこっちを見ているだけ。
「でも、芹沢先輩が秋を手伝ってくれって…」
「うん。もう手伝ってくれてるから、他は何もしなくていいよ」
「もう手伝ってるって、…俺、何もしてないけど」
からかっているのか?と思ったけど、そうでもないらしい。本気で言っているようにしか見えない。
…新手のイジメ?
俺が複雑な顔をしていたからだろう、とうとう秋が笑い出した。
「クククッ…そんな目で人を見ないように。深を混乱させるつもりじゃなかったんだけどね。…わからないかな」
わからないから素直に頷くと、秋はとんでもない事を口走ってくれた。
「深がここにいてくれる事が、俺の助けになってるって事。わかった?」
「なっ…、わ…、わかるわけないだろそんな事!っていうか何だよそれっ」
涼しげな顔で、よくもそんな恥ずかしいセリフを…。
俺もサラリと軽く流せばいいのに、…ダメだ…流せない…。顔が熱い。
赤くなっているだろう顔を気付かれたくなくて、わざと不機嫌な表情を作って横を向いた。
「怒った?…でも、深がいてくれて嬉しいのは本当だよ。……最近、部屋以外で話す事がないからね」
そう言われて、ドキッとした。
寮以外では意識的に秋を避けている事に、もしかして気付いていたのかもしれない。
背けていた顔を恐る恐る秋に向けると、もう秋は笑っていなかった。
笑っていないどころか、笑みの片鱗もなく真顔で、俺の心を見透かすような鋭い視線を向けてくる。
「…深。…何か俺に、言いたい事とか聞きたい事があるんじゃない?」
そう言いながら近づいてくる秋に、無意識に後退った。
話したい事はある。…でも、それを口にする勇気がない。
そうこうしている内に、後退っていた足に何かがぶつかった。
俺の行く手を阻むのは何だ?と振り向くと、真後ろにあった誰かの机にぶつかったのだとわかった。
そして正面に向き直れば、もうすぐ目の前に秋がいて…。
…これはもう、逃げられないな。
詰めていた息を吐き出し、腹をくくった。
「…俺と秋って、親しくしちゃダメなのか?皆がいる前で秋に話しかけると、秋に迷惑がかかる?」
「…深…」
「最近、知らない奴が頻繁に声をかけてくるようになった。俺が天原の直系だって知った途端、周りの態度が変わって…。でも、それとは逆に、天原の人間が黒崎家の人間と親しくするなんてありえない…って言ってくる奴らもたくさんいて…。もう…、どうすればいいのか俺にはわからなくて…」
このところずっと悩んでいた事。
それを言葉に出したら、少しだけ心の重みが薄れた気がする。
でも、口にしたらしたで、今の言葉を聞いた秋がどんな風に思ったのか、その顔を見るのが怖くなって俯いてしまった。
すると、頭にフワリと何かが触れた。
……秋の…手…?
「夏に、黒崎家と天原家はライバル同士だって言ったのを覚えてる?…周りの人間は、俺達が親しく話していると親同士が変な画策をしていると勘ぐるんだよ」
「俺が、黒崎家に対して何か企んでると思われてるって事?…だから、秋と親しくするなって…あいつらは言ってきたのか」
その言葉に、秋は溜息と共に「たぶんね…」と疲れたように言った。
指に俺の髪の毛を絡ませて遊んでいた秋の手が離れたと同時に顔を上げると、秋の視線はもう俺から離れて、窓の向こうに向けられていた。
「深がそんなスパイみたいな事をするわけがないのに、…あいつらは何もわかってない。………ゴメン…」
「なんで、秋が謝るんだよ」
「俺と一緒にいると、深に迷惑ばかりかかる…。…離れた方が…、関わらない方がいいのかもしれない」
「な…に馬鹿な事言ってんだよ!そんな奴らのせいで俺達が仲違いするのって変だろ!?」
秋の口から零れ出た弱気な言葉に腹が立ち、咄嗟に手が出て目の前にある襟元をグッと掴み寄せてしまった。
これにはさすがに秋も、窓の向こうからこっちへ視線を戻す。
……でも何故か、その瞳は楽し気に笑みを浮かべていて…。
「…秋…?」
「深ならそう言ってくれると思った。あんな、家柄でしか人を見ない奴らの言う事なんて気にするだけ馬鹿馬鹿しい。俺達の心がすれ違わなければそれでいい。周りがどうだろうと関係ない」
「…秋、お前…」
「深がそう思ってくれるなら、俺も遠慮なんてしない」
さっきの「関わらない方がいいかもしれない…」って寂しそうに言ったのは、演技だったのかよ?!
そんな言葉が喉元まで込みあがってきたけど、なんだか妙に上機嫌な秋を見たら何も言えなくなってしまった。
掴んでいた襟からそっと手を離し、
「イイ性格してるよ…」
俺に言えたのはその一言だけだった。
その時、
グー、キュルル~…
「………」
「………」
…何故こんな時に鳴る…、俺の腹…。
「…そんなに真顔で見るな」
まじまじと顔を見つめられる居心地の悪さ。普通に笑ってくれた方がまだマシだ。
「お腹空いたの?」
「…うん…」
頷くと、いきなり手を引かれて扉へ向かって引っ張られていく。
「あの、ちょっと…」
「少し早いけど、昼ご飯、食べに行こうか」
その言葉に反応するように、また鳴る腹の音。言葉よりも雄弁だ。
すると、部屋を出た瞬間に突然ブハッと秋が噴き出した。
「なんだよ!」
「あのタイミングで腹鳴らすかな、普通」
そう言って涙まで流し、体を前のめりにして大笑いしている。
もしかして、一回目の時は笑いを堪えてたのか…。
そういえば、かなりの笑い上戸だったはずの秋が、こんな時に笑わないはずがない。
「時間差で笑うなよ!」
「いや、だって笑っちゃ悪いかと思って我慢してた」
気を使ってくれたのかもしれないけど、結局笑ってるんだから意味がない。
自分が原因なのは確かだから怒る事もできず…、結局、暫くしてからなんとか笑いをおさめた秋を俺が引きずる形で食堂へ向かった。
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