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学園生活Ⅱ-40

「…ハァ…、…ハァ…。…また、ここに来ちゃったな…」 宮原を中庭に置き去りにして走り出し、何も考えずに辿り着いた場所。 月宮の森。 自分の心中がグチャグチャになった時、なぜか無性にここに来たくなる。 自然に囲まれたこの場所は、いるだけで癒されるのかもしれない。 「…アイツといると…、自分がわからなくなる…」 近くの大きな木の幹に背を預けて寄りかかりながら、さっきの事を思い出す。 なんであんな事しちゃったんだろ…俺。 いくら交換条件だったとはいえ、なにもそのまま言うことを聞く必要はなかったはずなのに、どうして…。 夜の冷気に体の熱が下がってくると、昂ぶった感情も徐々におさまってくる。 落ち着いた呼吸でもう一度息を吐き出し、さっきの出来事を振り払うように頭を緩く横に振った。 その時、落ち葉を踏む誰かの足音が、ゆっくりとこっちに向かって近づいてくる事に気がついた。 一瞬、宮原が追いかけてきたのかと思ったけれど、規則正しい落ち着いた足音に違うと判断する。 こんな寒い季節のこんな時間に、俺と同じような奴がいるんだ…。 そう思うと、ふと可笑しくなってきた。 …そろそろ戻るか…。 そこでようやく、自分の体が冷え切っている事に気がつく。 おかしなもので、気づいた途端一気に寒さが押し寄せてきた。 体を震わせ、その場から歩き出そうと足を踏み出す…、はずだったのに、目の前に姿を現した人物のせいで、また立ち止まる事になってしまった。 「…鷹…宮さん…」 驚きに見開いた視線の先に、品の良い微笑を浮かべて俺を見ている鷹宮さんの姿がある。 月明かりの陰影の中に浮かび上がるその姿は、一瞬ここが何かの舞台かと勘違いしてしまいそうになるほど艶めいて見えて…。 「こんな所に一人でどうしたの?……月光浴をするには、季節が寒すぎるね」 優しく静かな声が耳に届く。 どこか厳かな空気に何も言えず、視線を横に逸らした。 そんな俺を見て、声には出さずに笑う鷹宮さんが何やら身じろぎをしていたかと思ったら、フワリと香ったフレグランスと同時に肩から背中が優しい暖かさに包まれる。 「…え…?」 少しだけ大きめの黒いコートが、肩から掛けられていることに気がついた。 残る仄かな体温が、今まで鷹宮さんが着ていた事を教えてくれる。 「…ッ…鷹宮さん、これ…」 慌てて脱ごうと襟元に手を伸ばしたけれど、それよりも早く、鷹宮さんの手によってその行動を阻まれてしまった。 「せっかく着せたのに、なんで脱ごうとするのかな。そんなに僕のコートを着るのは嫌ですか、深君は」 「違っ。これじゃ鷹宮さんが寒いじゃないですか!俺は平気ですから」 「僕も平気。だから大人しく着てくれると嬉しいんだけど」 そう言われてニッコリと微笑まれてしまえば、もう抵抗する事もできず…。 頭を下げてお礼を言ってから、その暖かさを受ける事にした。 「………」 「………」 それっきり何も言わずに黙り込んでしまった鷹宮さんを目の前に、途方に暮れる。 黙っているだけならまだいい。 でも、俺の顔をジーっと見つめたまま黙り込まれると、どうしていいかわからない。 「あの…、鷹み…、」 「僕でよければ聞くよ?」 「え…?」 唐突な言葉に、思考が追い付かない。 どういう意味なのかわからず、戸惑いながら鷹宮さんを凝視する俺に、その端整な顔がフッと緩んで種明かしをしてくれた。 「中庭から走ってきたんだよね?桐生が言ってた」 「夏川先輩が?……あ…、だから鷹宮さん、ここに来てくれたんですか?」 こんな時間にこんな所で会うなんて凄い偶然だとは思っていたけど、まさか中庭からここまで来る姿を夏川先輩に見られていたとは…。 「一人でいたいなら僕は帰るし、誰かにいてほしいと思うならこのまま付き合うし、愚痴でも悩みでも言いたい事があるなら聞くよ」 「…鷹宮さん」 無償の優しさが、ジワリと心に染み込む。 高槻さんといい鷹宮さんといい…、俺の周りにいる年上の人達は、何故こうも優しいんだろう。 その暖かさを感じ取りながら、自分の心と向き直った。この際だから、鷹宮さんに聞いてみたい。 普通とはどこか違う、この人の答えを。 「…鷹宮さんは、自分の行動や感情を自分で制御出来ない事ってありますか?…思ってもみない事をしてしまったりとか…」 ともすれば(かす)れてしまいそうな声で、そんな質問をしてみた。 遠回りな聞き方だけど、今いちばん悩んでいる本質そのものの質問。 俺から見て、鷹宮さんはしっかりと己を律する事が出来る人だ。この質問をする事自体が、間違っているかもしれない。 と、そう思ったのに、 「そんなのしょっちゅうだよ」 クスリと笑ったあと簡単に返ってきたその予想外の答えに、「へ?」と目を見開いた。 「どうしたの、そんな驚いた顔して」 「いや…だって、鷹宮さんっていつも飄々としてるっていうか、計算づくで動いてるっていうか…、感情に振り回される事なんてなさそうに見えてたから…」 「そうだねぇ…、確かに今まではそうだったよ。感情制御なんてお手の物で、困った事さえない。…けれど最近は、自分の感情に振り回されてばかりで大変なんだ、…これでもね」 そう言って苦笑いを浮かべた鷹宮さんの様子からは、その言葉以外にも…他に何か胸に秘めた物があるような…。なんだろう…、何か困ったような苦しそうな、そんな何かを感じる。 …気のせい…かな…。 でも、少し安心した。鷹宮さんでさえ自分の行動の全てを制御出来きれていないのに、ただでさえ未熟すぎる俺にそれが出来なくても、当たり前かもしれない。 逆に、出来ると思う事の方が不遜かも…? なんだか、肩の力が抜けた気がする。 そんな安堵感が伝わったのか、柔らかな笑みを浮かべた鷹宮さんが、身を屈めて顔を覗き込んできた。 「どうやら少しは悩みが解消されたみたいだね」 「はい。ありがとうございます」 頷く俺に、「よしよし」と満足そうに笑う鷹宮さん。つられて俺までへらりと笑ってしまった。 「それじゃ、そろそろ戻ろうか?このままここにいたら、二人とも風邪を引いてしまう」 そう言われてハッと気づいた。鷹宮さんのコートを着たままだった事に…。 制服しか着てない鷹宮さんは、物凄く寒いはずだ。 なんでもないかのように振る舞う様子に目眩ましをかけられて、すっかり忘れていた自分を殴りたい。 ここまでアホだと、もう犯罪の領域に入るんじゃないだろうか…。 己の行動に後悔の念を呼び起され慌ててコートを脱ごうとした、けど、またしてもその手を掴まれて行動を阻まれる。 挙句の果てには、掴まれた腕を引っ張られ、慌てている内に強引に引きずられて歩き出す。 「あの!鷹宮さん、コート!」 「帰ろう帰ろう。早く帰ろう」 「そうじゃなくて、コートをっ」 「今日の夕食はなんだろうねぇ。僕の好きなブラウンシチューだといいな~」 「………」 ワザとだよな。ワザと俺の呼びかけを無視してるよな…。 背後からチラリと見える鷹宮さんの横顔は、相変わらず楽しそうな笑みが浮かんでいる。 …ありがとうございます。鷹宮さん…。 コートを脱ぐ暇さえ与えてくれないその優しさに、礼を言っても絶対素直に受け入れてくれないだろう事を知っているからこそ、心の中だけで呟く。 冷たい夜の空気の中、繋がれた手から感じる鷹宮さんの体温だけが唯一暖かさを感じるもので…、恥ずかしさはあるけれど、それが凄く心強くて…。寮へ戻るまでその手が離れることはなかった。

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