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学園生活Ⅲ-6
「…っ…!」
「…ック…ぅ…!」
全身に走った衝撃。一瞬、息が出来ずにクッと喉が詰まる。
それでも、気付けばすぐに大量に流れ込んでくる空気。反射的に咳き込んだ。
…生…きて…る…?
乱れた呼吸をそのままに、ギュッと閉じていた目をゆっくりと開いた。
目の前には、普通に下りてくるはずだった階段がある。
落ちた事は明らかだ。でも、あまりの出来事に、自分の体に痛みがあるのかどうかさえわからない。
「…っ…おい、…おい!大丈夫か!?」
「…え…?」
突如として耳元で聞こえた怒鳴り声に我に返った。凄く必死な声。
こんな近くに誰かがいる?
そういえば、凄い衝撃はあったものの、体はそんなに痛くない…かも…。
おまけに、何かに包まれてるように暖かくて…。
「…え?!」
勢いよく顔を上げた。
「その様子じゃ無事みたいだな。あんまり驚かせんなよ…ったく…」
「…宮…原……?」
極々間近に見えたのは、厳しい表情で眉を顰めている宮原の顔だった。
よく見れば、俺を受け止めるようにその腕が体にまわされ、更に、上半身は思いっきり宮原に包み込まれている状態になっている。
「…え?………え?」
何がなんだかわからなくて、ひたすら目の前にある顔を見つめると、宮原が物凄く怒っている事に気が付いた。殺気にも似た威圧感
「大丈夫だな?」
「…あ…あぁ…」
いまだ茫然としたまま、なんとか頷き返す。そこでようやく宮原の顔がホッとしたように緩んだ。
その時。頭上の方から、聞いているこっちまで震えそうになる程の厳しい声が聞こえた。
「おい!自分が何をしたのかわかっているのかお前は!!殺人犯にでもなるつもりか!!」
「……ヒッ…!」
凍る程の冷たい声と怒気、そして怯えの混じった呻き声。
恐る恐る見上げた階段上では、床にペタンと座り込む北原の姿と、横に立ってそれを見下ろす、恐ろしいまでに双眸を鋭くした夏川先輩の姿があった。
階段途中で立ち尽くす生徒や、俺と同じく階段下の踊り場にいる生徒。全員が、夏川先輩と北原を食い入るように見ている。
誰ひとりとして言葉を発する者はいない。それほどまでに周囲を圧倒する夏川先輩の怒気。
…もしかして…、俺…、北原に突き落とされたのか?
目の前で繰り広げられている状況から、ようやく自分に何が起きたのか理解ができた。
そこまで北原に憎まれていたなんて…思っていなかった。下手をしたら死んでいたかもしれない。
殺意を抱かれるほどの悪意をもたれた事なんて初めてで、恐ろしさに体が震えだす。
「…おい…」
異変に真っ先に気付いたのは宮原だった。眉を寄せて顔を覗き込んでくる。
「…な…んでもない…。大丈夫…」
止めようとしても止まらない震え。自分でもどうにもならない。
人の悪意がここまで怖いとは思わなかった、宮原が抱きとめてくれなければ死んでたかもしれない。
“もしも”の最悪の事態を想像して更に恐怖に襲われそうになった、その時。ある一つの疑問が脳裏を過ぎった。
あんな勢いで落ちた俺を受け止めた宮原は、無事なのか?
途端に体の震えが止まる。
「宮原!」
「ん?」
「お前…は、大丈夫なのか?…落ちてくる俺を受け止めるなんて…、そんな事して…」
…怖い…、もしこれで宮原が怪我をしていたら…。俺は…自分を許せない…ッ。
自分自身が怪我をするよりも、助けてくれた宮原が怪我をする事の方がよほど怖いし辛い。
一つの異変も見逃さないように、ジっと宮原を見つめる。
すると突然、目の前にあるその顔が何かに苦しむように歪められた。
…まさか…。
「おい!どこか痛いのか!?どこだよ!どこが痛む!?」
心臓がキュッと縮むように痛くなる。
宮原の制服の腕を握りしめて、その全身を見回した。
「……なーんてな」
「…………は…?」
必死だった俺の耳元に聞こえた呟き。
宮原の顔を見ると、そこにはいつものようなニヤニヤ笑いが浮かんでいた。
……なーんてな?…って…、え…?……まさか…。
無意識のうちに出た手が、バシッと宮原の腕を殴っていた。まったくもって遠慮なく。
「俺がそんなヘマするかよ。しっかり受け身くらいとれる。…っつうか、今のアンタの暴力の方が痛ぇんだけど…」
「うるさい!驚かせた罰だ!」
張りつめていた空気が一気に緩んだ。
怒って見せたものの、心の内ではホッとする。
俺も無事で、宮原も無事。…何事もなく済んで本当に良かった…。
密かに安堵の息を吐きながら、また階段上に視線を向けた。
宮原の事が心配ですっかり忘れていたけど、そういえば北原と夏川先輩はどうなったんだ?
いつの間にか、周囲からは人の気配がなくなっている。もしかしたら、既に昼休みが終了してしまったのかもしれない。
階段上では、いまだ座り込んで茫然としたままの北原の二の腕を掴んでいる夏川先輩の姿があった。
俺の視線に気がついたのか、そのままの体勢で夏川先輩がこっちを見下ろしてくる。
北原を見ていた冷たい眼差しではなく、まるで弟の無事な様子に安堵した兄のような…慈愛の眼差し。
「…2人とも無事みたいだな。コイツの対応に関しては俺の方で手筈を整える。…宮原、そいつを早く保健室に連れて行ってやれ。見た目が平気でも、後で打撲症状が必ず出るはずだから。お前もな」
夏川先輩の言葉に、背後の宮原が無言で頷いたのが感じられた。
俺はといえば、先輩の言葉は途中から何も耳に入らなくなっていた。
視線の先にいる北原の様子が、目に見えておかしかったからだ。
本当ならここで北原と話をするべきだったと思う。でも、とてもそんな状況ではないとわかった。
なぜなら、北原は、もう何かが壊れてしまったかのようにその視線を宙に彷徨わせ、なんの音も声も聞こえていないような状態になってしまっていたからだ…。
虚ろな眼差し。
眼尻から、行く筋もの涙が頬を辿った跡がある。でも、その瞳はもう何も映していない。
心が壊れてしまっている…、それが、ハッキリとわかった。
「……天原……」
不意に、夏川先輩の戸惑った声が聞こえた。何故か、痛ましいものを見るような眼差しをしている。
なんですか?
そう聞こうとして視線を動かした時、夏川先輩が何故そんなに痛ましい顔をして俺の事を見ているのか、理由がわかった。
俺の目から、とめどなく涙が溢れていたんだ…。
指で頬を触ると、透明な水が指先に付く。
新たな涙が、ボロボロと零れ落ちてくる。
…どうして…。なんで俺達、こんな事になったんだ?
こんな事になるほど、俺の事が憎かった?殺したいと思うほど、俺の存在が目障りだった?
俺は、北原の心に巣くった闇の部分を、簡単に考えすぎていたのかもしれない。
こんな事になる前に、腹を割って、顔を突き合わせて、ぶつかっても大喧嘩になってもいいから話をしておけば良かったのかもしれない…。
自分の馬鹿さと、目の前にいる北原の心を失った姿に、やりきれない思いが溢れて止まらない。
後悔とショックに茫然としていると、突然体がフワッと浮いた。視界が高くなる。
「頼んだぞ、宮原。…天原も、今は何も考えずにゆっくり体を休めろ」
宮原に横抱きにされている状態から見上げた夏川先輩の顔は、今まで見た事がない程優しく微笑んでいた。
そこで安心したのか、まるで途切れるようにフッと意識が途絶えた…。
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