216 / 226

蒼穹希心2

†  †  †  † 「神崎。…なんだ、神崎はまたいないのか」 宇宙の在籍する教室では、一つだけポツンと空いた席を見ながら数学担当教師が溜息混じりに呟いた。 5時間目。 数学の授業をサボった宇宙は、中庭奥にある森の中にいた。 湧水が作る清廉な池の近くにある大きな木の根元に座り込み、目を閉じている。 艶のある漆黒の髪と、座っていてもわかる背の高さ。 彼のファンが見たら、見惚れてしまうような気怠さを醸し出していた。 『教えてください。…俺の、過去を…』 目を閉じれば何度も思い浮かび上がる、あの時の会話。 母親が不倫をしてできた子供だった宇宙に父親がいない事を知って、後見人を名乗り出てくれた人物、――宮原征爾に詰め寄った時の事を。 『前世は前世だ。今のお前とは関係ない。それでも聞きたいのか?』 一寸の隙もない、迫力のある男。 後見人である彼の、心の奥底を見透かすような強い眼差しが宇宙をじっと見据えてそう問うた。 征爾が後見人に名乗りを上げた時、宇宙はまだ10歳だったが、彼は包み隠さず、自分は邑栖会(ゆうせいかい)という広域指定暴力団の会長だと告げた。 子供相手によくもそこまでハッキリ言ってくれるものだと、その潔さに感銘を受けたのがつい最近の事のように感じる。 前世の記憶がある。 そんな事は普通ではありえないだろう。でも、宇宙はそのありえない事を身を以て体験している。 そして、この宮原征爾という人物は、宇宙の前世だった“宮原櫂斗”という人物の兄にあたる人だ。 人の縁とは死んでも変わらないものなのか…。 運命は巡り、再会を果たした魂の繋がった兄弟。 血の繋がりと魂の繋がり。 どちらがより強固なものなのか、宇宙にはわからない。 それでも、この男が信じるに足る相手だという事は確信できた。 前世から引きずる様々な記憶や感情と向き合うために、宇宙は征爾に向き直った。 それは、もう2年も前の事。 『今の俺が神崎宇宙である為に、全てを知って区別したいんです。今の俺と、宮原櫂斗という人物を』 そう言った宇宙の中に、どこか迷いがあったのは征爾にもわかっただろう。 前世として残っている記憶は夢物語として曖昧にしたままの方がいいのではないか。真実を知って、更に自分の根幹が揺らぐ事にはならないだろうか。 だが、敢えてそんな宇宙の迷いに気付かぬふりをして、征爾は語ってくれた。 曖昧な記憶としてではなく、実際にあった現実としての…間違いのない事実を。 邑栖会会長の三男として生を受けた、宮原櫂斗としての人生。 そして、宮原櫂斗が、短い生涯の中でただ一人だけ愛した最初で最後の最愛の人物、天原深(たかはらしん)の事。 征爾自身が知る限りの事を教えてもらった、二年前のあの日。 今となっても、あの時の征爾の言葉は一言一句全て覚えている。 それらを脳裏に思い描いて、宇宙は深い溜息を吐いた。 深の事は知っている。 幼き頃に偶然出会ってから今日まで、宇宙を本当の弟のように慈しみ、気にかけてくれている人物。 美しく端正な容姿と優しく可愛らしい性格。時折ムキになる子供っぽさは、いつになっても変わらない。 昔はとにかく深が運命の相手だと、何も考えずに慕っていた。 深に黒崎秋(くろさきしゅう)という恋人がいるのも知っていたけれど、それでも深は自分のものだと思い込んでいた。 でもそれが、その感情が本当に自分の…神崎宇宙のものなのか?と疑問を抱き始めたのは、月城学園の中等部に入学した頃。 思春期を迎え、子供から大人への段階へ進み始めた時、宇宙の中で、突然前世の記憶が重く圧し掛かってきた。 深への想い。征爾への敬愛。 もしそれらが、前世の記憶に引きずられてのものだったとしたら? 前世の記憶がなかったら、例え深と出会ってもこんな感情は抱かなかったかもしれない。征爾の事も、単に裏社会の危険な人物としてしか認識しなかったかもしれない。 もしそうだとしたら、この想いは神崎宇宙としての想いではないのでは…。 それに気づいてから、宇宙の中で葛藤が始まった。自分の感情の何もかもが信じられなくなった。 閉じていた瞼を開いて、目の前にある池を眺める。 涼しい微風と水の流れる音。 心落ち着くはずの情景も、今の宇宙には何の癒しも与えてはくれなかった。

ともだちにシェアしよう!