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蒼穹希心4

†  †  †  † 3時間目、体育の授業。 体の弱い優は、体育の時は図書室で自習しても良い事になっていた。 体育館での授業ならその場で見学をしていたが、今日のように陽射しが強い日にグラウンドで…となると、やはり図書室での自習を余儀なくされる。 つまらなくもあるし、こんな自分の体が恨めしくもあるけれど、考え方次第では、こうやって好きなように自習できるのはラッキーと言えばラッキーなのかもしれない。 そんな事を思いながら、特別棟にある図書室のドアを開けて室内へ入った。 授業中だからなのか、他の生徒はおろか司書すらもいない。無人の図書室。 集中できるといえばできるけれど、あまりに静か過ぎても居心地が悪い。 なんとなく足音を忍ばせるようにして、自習用の机が並ぶ奥まで進んだ。 「…あ…」 いちばん奥まで行った時、壁際にもたれて座り込んでいる人物に気がついた優は、思いもよらぬ出来事につい声を上げた。 静かなこの空間では小さな声でもよく響く。 案の定、何かの本を読んでいたその人物は、ゆっくりと顔を上げた。 綺麗で男らしい切れ長の目と、癖のない漆黒の髪。 「神崎君…」 絨毯張りの床に片膝を立てて座り込み本を読んでいたのは、神崎宇宙だった。 優の心臓が、予想外の事にドキッと鼓動を刻む。 だが、一度は優を捉えたはずの宇宙の視線は、またすぐ手元の本に戻ってしまった。 まるで見知らぬ人間にするような対応に、先程高鳴ったはずの胸が今度はキリリと痛む。 それでも優は、宇宙の目の前まで歩み寄り、少しでも視線が近くなるように自分も床にしゃがみ込んだ。 「神崎君も自習なの?」 「………」 問いかけても、なんの反応もない。 それどころか、もう一度本から上げた視線を今度は窓の外に向けて、青い空を眺めはじめた。 目の前に優など存在していないかのような態度をされ、さすがにこれ以上は話しかけられないな…、と立ち上がろうとした時。 空を見る宇宙の双眸に、どこか苦しそうな色が浮かんでいる事に気がついた。 見ている方も息が苦しくなるような切ない眼差し。 優は思わず手を伸ばし、立てた片膝に乗せられていた宇宙の右手を掴んだ。 その感触に我に返ったのか、宇宙がハッとしたように優に視線を向ける。 …一瞬の素の表情はどこか幼くて…。 いつもとは違う頼りなさ気な表情に胸を締め付けられた優だったが、宇宙のその表情はすぐに普段の他者を撥ね退けるものへと変わってしまった。 「…なんだよ…。手、離せ」 「どうして…、どうしてそんな目をするの?」 宇宙を苦しませている何か。 それをどうにか取り除きたいと思った優は、宇宙の目を真正面から見つめて問いかけた。 何がそんなに彼を苦しませているんだろう。 こんな風に一人で苦しんでほしくない。 解決する方法はないの? 僕に、何か出来ないだろうか…。 溢れそうな想いが、真摯な眼差しとなって宇宙に突き刺さる。 まっすぐに自分を心配してくる優の綺麗な心。 それがまた、別の苦しみを宇宙にもたらす。 優に心配されればされるほど苦しくなる。それがなんなのかわからず、遠ざける事しかできない。 透きとおるような優の瞳を見続ける事が出来ず、宇宙は顔を背ける事で視線から逃れた。 「…前から思ってた。時々、神崎君は今みたいに悲しそうで苦しそうな目をする事があるって…。…僕じゃ役に立てないかな…。僕が苦しんでる時、何度も神崎君が助けてくれた。神崎君が苦しんでいる時、今度は僕が助けられないかな?」 一生懸命に話す優の声は震えていた。 一生懸命、一生懸命、丁寧に言葉を紡ぐ優。 切ないほどに伝わってくる優しい空気の波動に、宇宙は震えそうになる自分の手をグッと握り締めた。 「…お前には、関係ない」 静かに放たれた拒絶の言葉。 静かであればあるほど、痛い言葉。 優は、目の縁が熱くなるのを感じながらも、まだ掴んだままの宇宙の腕を更にギュッと握りしめた。 「…関係…ないかもしれないけど、でも、心配になるんだ。神崎君がそうやって一人で苦しんでるの、イヤなんだ」 「イヤなら近づかなければいい。お前に心配なんてされたくない」 どこまでも拒絶する宇宙に、とうとう優は言葉を失った。 心配なんてされたくない。 そう言っているのに、瞳がそれを裏切っている事に気付いてないの? 言葉よりも雄弁に語る瞳が、そんなにも苦しさを表しているのに…。 どうしたらいいかわからなくなった優は、それまで掴んでいた宇宙の腕をそっと離した。 「………」 「………」 優の手に掴まれていた部分。 離れた事で、それまで触れていた柔らかな体温が、なぜかとても心地よかった事に気がついた宇宙は、その感触を消し去ろうと自分の腕を掴んだ。 そんな宇宙を見つめていた優は、心の奥から込み上げる何かに突き動かされるように口を開いた。 「……心配するに決まってるよ…。…だって、…だって神崎君は、僕が初めて好きになった人なんだから…」 無意識に零れ出たかのような小さな声。 その声が耳に入った瞬間、宇宙はハッと目を見開いて目の前にしゃがみ込む優を見た。 そこには、綺麗で透き通るような双眸から涙を流している優の姿があった。 「…千秋…、お前…」 思いもよらなかった優の告白に茫然とするも、前世の記憶を持つが故に今の己というものを確立しきれていない宇宙は、妙な可笑しさが込み上げてくるのを感じていた。 自分がなんなのか自分自身でさえわかっていないのに、他人である優に何がわかるというのか。どこを見て好きだと言えるのか…。 「…そんなのはお前の気のせいだ。俺のどこを好きなんだよ。ありえないだろ」 どこか自嘲気味に呟く宇宙の瞳は、もう優の事を見てはいない。 深く深く、己の心の底を覗き込んでいるような昏い瞳。 優は、頬を伝い落ちる涙を手の平でグイッと拭いさると、いくら言ってもわかってもらえない苛立ちからかどうにもならない悔しさからか、珍しく声を荒らげた。 「全部だよ。僕の目に映ってる神崎君が全部好きなんだ!普段は冷たく見せてるのに、本当に困ってる人がいたら絶対に見捨てないとこ。強くて独りが好きそうに見せかけているけど、本当はそうじゃないとこ。何かに苦しんでるのに、独りで頑張ろうとしているとこ!全部!」 「……お前…」 外側だけを見ての言葉だとばかり思っていたのに、優の口から放たれたのは、宇宙が隠そう隠そうとしてきた内面の部分だった。 本来なら、男として情けないはずの弱い部分。 優は、それらも含めて全部好きだと言った。 …なんでコイツは、こんなに…。 必死に向き合おうとしてくれている優を見ると、必死に保とうとしてきた自分の中の何かが崩れてしまいそうで…。 …いつも逃げてばかりだな。 そうわかっていても、宇宙はまた今も逃げ出すために立ち上がった。 「悪いけど、俺は他に好きな人がいるから」 脳裏に浮かんだのは、暖かい陽だまりのような人。 自分の全てを知っていて、それでもとても大切だと言ってくれる人。 …深…。 思い出すだけで心が安堵に緩む。 優とのやりとりで掻き乱された心が徐々に落ち着いていくのを感じながら、宇宙は図書室を出て行った。 宇宙が出て行ってしまった後。 先程までと同じ、絨毯張りの床にしゃがみ込んだ体勢で俯いた優は、堪え切れない涙を流していた。 大粒の雫が、ポタポタと絨毯に染みを作る。 「…だって…、本当に好きなんだ…。神崎君に好きな人がいたって、諦められるような軽い想いじゃないんだ…っ…」 …苦しい…。もう、どうしたらいいか、わからないよ…。 床に着いた手の平をギュッと握りしめた優は、そのまま授業が終わるまで1人静かに涙を流していた。

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