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蒼穹希心5

†  †  †  † 図書室の出来事から3日後。 放課後になって職員室を訪れていた優は、廊下で待っていてくれた飛鳥と並んで職員室を出て昇降口へ向かっていた。 数日前からどことなく元気のない幼馴染の様子を、飛鳥はただ心配そうに見守っている。 そんな中、突然優が足を止めた。 どうしたんだ?と飛鳥が見下ろした先の顔には、驚きと動揺が浮かんでいた。 優の視線は、前方に向けられたまま固まっている。 それに倣って飛鳥も視線を向けた先には…。 「…神崎…」 正面玄関横にある事務室から出てきたらしい、神崎宇宙の姿があった。 相変わらず独特の迫力があるせいで、とにかく目を引く。 宇宙の名を呼ぶ飛鳥の呟きが聞こえた瞬間、優の肩がビクッと震えた。 「…優、あいつと何かあったのか?」 「別に…、何もないよ。大丈夫」 動揺を押し隠して飛鳥に微笑みかける優だったが、その微笑みはとても大丈夫といえるものではない。 それでも優は、止めていた足を動かして歩き出す。 徐々に近づいていく二人の足音に気付いたのか、宇宙も視線を上げた。 優の姿を見とめた時、一瞬だけ動きが止まったように見えたが、それは気のせいだったのか…、やはりいつもの如く何も見なかったように視線を逸らされる。 背を向けて歩き去る宇宙の姿。 …やっぱり…、関わらないようにするなんて、イヤだ。 優の中に沸々と湧き起こるどうにもならない恋慕。その衝動に身を任せるように、宇宙に向かって足を速めた。 「神崎君、待って!」 走るまでもない、僅かな数メートル。 無視をされてしまうかもしれないという危惧は、珍しく杞憂となった。 足を止めて振りむいた宇宙。 自分の存在を見てくれている事がわかった優は、たったそれだけの事なのに、どうしようもなく嬉しさを感じている自分に気付いた。 些細な事でも嬉しく思う程、恋焦がれている。 宇宙の目の前に立ち、その顔を見上げた。 「この前はごめんなさい。神崎君の気持ちも考えずに好き勝手な事ばかり言って」 「…いや…、別に気にしてない」 無愛想で素っ気ないけれど、気にしてないと言ってくれるそれが彼なりの気遣いだと、優にもわかっている。 本当に不器用な優しさ。だからこそ、心が温かくなる。こんな人だから、好きにならずにはいられない。 数日前の図書室以来、次に会ったらどういう顔をすればいいのかわからない…と悩んでいたのが嘘のように穏やかなやりとり。 自然と浮かび上がる笑みのままに、宇宙を見つめていた優。だからこそすぐにわかった。 突然、それまで無表情だった宇宙の顔に、信じられないとばかりの驚きの表情が浮かんだ事を…。 「…神崎君?」 宇宙の目は、正面に立つ優を通り越してその背後に向けられている。 驚きに見開かれた双眸は、徐々に優しく変化して柔らかな笑みを象る。 優は息を飲んだ。 …こんな神崎君の顔、見たことない…。 心の底からの喜び。 何があったのか振りかえろうとした時、聞き覚えのない声が廊下に響き渡った。 「久し振り、宇宙」 どこか落ち着く、甘さのある声。近づいてくる足音。 振りむいた優の目には、自分より少しだけ背が高く、品のある端正な顔をしたスーツ姿の青年が映り込んだ。 全体的に色素が薄いせいか、明るいベージュのスーツがよく似合っている。 横に辿り着いた青年から、爽やかなフレグランスの香りがフワリと漂った。 「…深…」 「まるで幽霊でも見たような顔だな、宇宙。一ヶ月前に会ったばかりだと思ったけど?」 クスクスと笑う姿は、それまでの品の良さから一転、可愛らしさを醸し出す。 深と呼ばれた青年を見つめる宇宙の様子から、優は何も言われなくても、この人が宇宙の“好きな人”なんだとわかった。 暫くの間、笑う深を驚いたように見つめていた宇宙だったが、途中でハッと我に返ったのかいつもの不遜な顔つきに戻った。 「少し見ない間に身長縮んだな」 「そんな事あるわけないだろっ。170から変わってません」 からかわれた深は言い返しながらも、すぐ横にいた優に微笑みながら会釈を返す。 優しい笑みが、優に複雑な気持ちを運んだ。 とても優しそうで温かそうな人。 でも、この人が宇宙の好きな人だと思うと、素直に話しかけられなくなる。 優が己の内の葛藤と戦っている間に、二人はお互いに言いたい放題のやり取りを開始した。 「まさか高校からやり直しかよ」 「ふざけるな、高哉に用があったんだよ!」 高哉(たかや)というのは、月城学園の理事長だ。 少し前までは、西条咲哉(さいじょうさくや)――という今の理事長の実兄が理事長をしていた。 現理事長の実兄であるその人物は、月城の理事の座を弟である高哉に受け渡し、自分は家の事業に就いたと聞いた事がある。 そんな理事長を呼び捨てに出来るなんて…、いったいこの人はどういう人物なんだろう。 優の瞳に純粋な好奇心が湧き起こる。 そんな事は露知らず、やはり2人はくだらない戦いを続けていた。 「こうやって制服姿を見ると、やっぱりお前も15歳だな」 「ガキ扱いするな」 「しょうがないだろ。実際俺よりも一回り以上年下なんだから」 「アンタが30過ぎだなんて言っても誰も信じない。せいぜい20代半ばだろ」 「…それは俺が大人っぽくないって言いたいのかな、宇宙くん?」 深の顔に、(この野郎…)とでも言いたいような怒りの笑みが浮かびあがる。 それでもやっぱり可愛らしい様子に、いつの間にか優の顔が綻び始めた。 宇宙の好きになる人はどんな人なんだろう。 数日前から考えていた優は、今目の前にいる本人を見てなんとなく納得した。 …あぁ…、本当に素敵な人だ、と。 そして、そう思った瞬間、とてつもない哀しみが胸を襲う。 言いたい事を言い合えるほど仲の良い2人の様子を、もうこれ以上見ていたくない。 「優、そろそろ行くぞ」 少し離れた場所で様子を見守っていた飛鳥が、まるで優の心の動きなどお見通しだと言わんばかりのタイミングで声をかけてきた。 長年の付き合いから、二人を前にした優の心情がわかったのだろう。 この場から離れる良いきっかけ。 二人だけになってほしくない、という気持ちと、もうこれ以上二人のやりとりを見ていたくない、という相反する思い。 優の心の天秤は、後者に傾いた。 「あの、それでは僕は失礼します。…神崎君、またね」 心の動揺と苦しさをひた隠しに隠した優は、二人に向かってペコリと会釈をして飛鳥の元に向かった。 相変わらず何も反応を返さない宇宙と、優しく微笑みながら会釈を返してくれた深。 そんな二人を背にして、優は飛鳥と並んで昇降口へ向かって歩き出した。 その顔からは、もう笑みは消えている。それどころか、泣き出しそうな顔に変わっていた。 「優…。あの人って神崎の…」 「うん、わかってるから言わないで」 俯きながら歩く優の声は、少しだけ震えていた。 それに気がついたけれど、飛鳥は優の為に心を鬼にしてもう一言付け加える。 「あいつにはあの人がいる、だからもう優は関わるのはやめろ」 俯いたままの優から、言葉は返ってこなかった。

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