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蒼穹希心10
† † † †
翌日。
自分だけの力では優の居場所を見つけられないと悟った宇宙は、朝一番から理事長室に向かっていた。
昨日、飛鳥が休学届を出したというからには、理事長は全てを知っているはず。
全てを知っている人間が身近にいるのだから、そこに行くのがいちばんだ。
校舎に入り、まだ誰もいない静かな廊下を足早に進んでいた、その時。
「…宇宙?」
正面玄関から入ってきた人物が、宇宙を呼びとめた。
深だ。
朝から一分の乱れもないスーツ姿で、不思議そうに宇宙を見ながら歩み寄ってくる。
「こんな朝早くに、どうした?」
焦りにささくれ立っていた心が、深の姿を見るだけで緩和する。
…あぁ…、俺はどれだけこの人の存在に頼ってきたんだろう…。
見ただけで、(もう大丈夫だ、なんとかなる)と自然に安堵してしまう程、今までの自分は深に助けられてきたのだとわかった。
「…深は?」
「今の仕事が教育関連のものだから、ちょっと高哉に協力を仰ぎ中。まぁそれも今日で終わるけどね」
「…そうか」
深に会った瞬間、これまで抑えていた全ての不安が一気に膨れ上がった。
一人では何も出来ず、抱えている感情の行方さえ定まらない。
こんなにも自分は子供だったのだと、わけのわからなくなっていた胸の内全てが、深を前にして濁流のように溢れだした。
「俺は、深がいてくれればいい、そう思ってたのに、それなのに!…あいつに会えないって思った瞬間、バカみたいに焦って…!」
「…宇宙…」
深の二の腕を痛いくらいに掴み、まるで血反吐を吐くように心からの叫びを口にする宇宙。
そんな宇宙を見た深の双眸が、切なさに細められた。
「なんで自分がこんなに焦ってるのかわからないんだ。千秋がいなくても俺は平気なはずなのに!……それに、深が何故俺の事をこんなに気にしてくれるのかもわからなくて…。…俺の前世の宮原櫂斗って奴と俺を、同一視してるからなんじゃないのか?深も征爾さんも、宮原櫂斗じゃなく神崎宇宙である俺を見てくれてるのか?って、ずっと不安で!」
堰を切ったように溢れだした言葉は、深の胸に深く深く突き刺さる。
時折感じていた不安。それがこんなにも宇宙の中で大きく育ってしまっていた事に、自分達大人は気付いてあげられなかった。
前世の記憶を持って生まれてきてしまった事が、今の宇宙をこんなにも苦しめている。
宇宙と宮原との繋がりを、もっと早く断ち切ってあげれば良かった。
お前はお前なんだと、もっとしっかり伝えておけば良かった。
深は、自分の遅すぎた行動が宇宙を傷つけてしまった事を、後悔なんて生易しい言葉では言い表せられないほどに悔んだ。
そして、掴まれたままの腕を上げ、その両手で宇宙の頬を優しく包み込む。
「宇宙、間違えるな。お前はアイツじゃない。お前はお前なんだ。過去に囚われなくていい。今目の前にある現実を見ろ。自分に素直になっていいんだよ。前世の感情を大切にするんじゃなく、今のお前の感情を大切にするんだ。俺の中では、お前と宮原は全くの別人だよ。もちろん、前世という繋がりがなければ、こうやって知り合う事はなかったかもしれない。でも、知り合った後、俺達がどういう関係を築いていくのかは、宮原じゃなくて俺とお前の間で決める事だろ。俺はお前を知って、そして親しくなりたいと思った、助けたいと思った。それは、宮原に対して思っている事じゃない。宇宙、お前に対して思った事だ。今生きてこの場にいるのは宮原じゃない、神崎宇宙なんだよ。もっと自分を信じろ。大丈夫だから」
「………深…」
宇宙の見開かれた目が、茫然と深を見つめた。
「最後にもう一つだけ…。…お前が俺に対して持っているのは、恋愛感情じゃない」
「え?」
「俺に恋愛感情を持っていたのは宮原だ。それに引きずられるな。……もっと大切に想う相手が、いるだろ?」
優しく微笑んだ深。
宇宙は、今ここでやっと、自分は自分なのだとハッキリ実感する事ができた。
そして、目の前にある現実。優がいなくなるかもしれないという事。
それを自分はどう感じているのか。
「俺は…、千秋が…」
「うん」
「千秋の事が、物凄く大切なんだ…」
「うん」
宇宙の言葉に、深はゆっくり頷いた。
深を想う気持ちのベール、それは、恋慕というより敬愛だった。
宮原の記憶と想いが今の自分と混ざり合い、本当の気持ちがわからなくなっていた宇宙。
自己の確立が出来なかった一番大きな要因である、宮原と自分との分離。
それが出来た今、まだ誰の目にも触れられていない純粋無垢な宇宙の心は、ただ一人の姿を浮かび上がらせた。
奥から奥から溢れだしてくる、千秋優への痛いほどの想い。
「…深、頼みがある」
「いいよ、なんでも聞いてやる」
もう大丈夫だと、宇宙の頬から手を離した深は、頼もしい限りの笑みを浮かべた。
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