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北の大地で 16

 ペンションで生活し出すにあたり、まずはセイの奥さんに挨拶した。 「あの、はじめまして。葉山瑞樹と言います。セイとは小学校の同級生で……」 「わぁ、ここに元々住んでいた男の子って、あなたなのね。すごく会いたかったわ」 「あっはい」 「私は産後間もないから、この通りあまり動けなくて……だからあなたに春先まで住み込みで手伝ってもらえると聞いて嬉しかったの。本当にありがとう」  セイの奥さんは、聞けばまだ産後二週間足らずとのことだ。ふくよかで笑顔が優しい女性で、人懐っこいセイとお似合いだ。高校の同級生だって聞いている。  温かい新婚家庭に望まれて生まれて来た赤ちゃん。赤ちゃんのいる部屋が幸せ色で満ちていた。 「いえ……僕の方こそ、実は怪我をして指先に麻痺がありリハビリ中のため……出来ないことがあるかもしれませんが、精一杯がんばります。よろしくお願いします」 「おいおい堅苦しい挨拶だなぁ。まぁ……瑞樹は昔から真面目でしっかりしていたよ。どうぞよろしくな。なぁ俺の息子、抱っこしてみるか」 「え……いいのか」 「もちろんさ」  赤ちゃんに触れさせてもらえるなんて……しかも新生児を抱っこするなんて初めてだから緊張する。  弟が生まれた時、僕はまだ五歳になったばかりで……首が据わるまでは、ひとりでちゃんと抱っこさせてもらえなかった事をふと思い出した。  抱き方……どうするんだったかな。記憶が朧気だ。 「どうやって抱っこすればいい?」 「あぁまだ首が据わってないから、こうやって首を手で支えて」 「うん、こう?」 「そうそう」  おそるおそる小さな赤ん坊を抱き上げてみた。  軽いし、小さかった。でも確かに小さな命の重みを腕にズシリとも感じた。麻痺は不思議なことに、その時はなくなっていた。 「わっ小さい」 「可愛いだろう? 」 「うん! すごく可愛いし、それにいい匂いがするね。ミルクの匂いっていうのかな」 「だろっ」  あぁ……やっぱり弟の夏樹の事を思い出してしまうよ。 **** 『もうすぐ瑞樹もお兄ちゃんになるのよ』 『楽しみだな。いつ? いつになったら会えるの? 』 『お母さんのお腹が満月みたいにまあるく大きくなったらよ』  お母さんのお腹は予告通り次第に大きく丸くなって、しゃがむのも大変になっていた。  ある朝すごく早く目が覚めてしまった。  なんだか怖い夢を見てしまったようだ。 『おかーさん、どこ? 』  いつもならすぐに返事があるのに、なかった。  おかあさん……僕を置いてどこかにいってしまったの? ひとりはこわいよ。  パジャマ姿のまま部屋中を探し回った。でもどこにもいないことにショックを受けて玄関で蹲ってしくしく泣いていると、コートを着たお父さんが慌てて駆けつけてくれた。 『瑞樹、ごめんな。誰もいなくてびっくりしたよな。今お母さんは病院に行ったよ。もうすぐ生まれるんだ。さぁ瑞樹も応援にいこう! 』 『そうなの? よかった。僕をおいてどこかに行っちゃったかと思ったんだ』 『ばかだな。そんなことするはずないのに。家族が増えるんだぞ。我が家も賑やかになるぞ』  お父さんに抱っこしてもらい、グンと視界が開けた。  それは明るい希望に満ちた朝だった。 ****  その日の夕方、ニューヨークにいる宗吾さんから僕の携帯に国際電話がかかってきた。 「もしもし瑞樹。おはよう」  そうかこの時間、ニューヨークは朝なんだ。だから宗吾さんに合わせて僕も朝の挨拶をした。 「おはようございます! 宗吾さん」 「おっ今日は明るい声だな。何かいい事でもあったのか」 「分かりますか。実は今日赤ちゃんを抱っこしたんです」 「え? なんだって」  宗吾さんは無性に羨ましそうな声だった。何でだろう? 「ほら、ペンションの奥さんが産後間もないので」 「あぁそうだったな。にしても、赤ちゃんか。いいな」 「宗吾さん? どうかしたんですか」 「いや、瑞樹が赤ん坊を抱っこしている姿なんてレアだから、直に見たかったと思ってな」 「あぁそれなら一枚写真を撮ってもらったので、後で送りますよ」 「そうか……でもなんだかその赤ちゃんに焼きもち焼きそうだな。俺もいっそ、その赤ん坊になりたい」 「ええ? 宗吾さんが赤ちゃんですか。くすっ」  想像したけど出来なかった。全然想像できなくて苦笑してしまった。 「あっ笑ったな。実は単純に瑞樹をまた抱っこしたいって思っただけだ」 「宗吾さんは……また……いつもそんなことばかり」 「あの日横抱きにしたのは、かなりの役得だったのか。あれからなかなかさせてくれないな。なぁ同居したら毎朝してやろうか」 「いっ……いいです!」 「ん? 嫌か。じゃあ毎晩?」 「それもいいですって! 」  会話の端々に楽しい事を交えてくれる宗吾さん。僕が寂しくならないように笑わせてくれる宗吾さん。  どんな宗吾さんも好きだ。 「そうだ、赤ちゃんを抱っこした時、指先の震えが止まったんです」 「へぇそうなのか! いい兆しだな。ピュアなものや美しいものに沢山触れるのはいい事だからな」 「宗吾さんに会える日が近づいていると思うと頑張れます」 「そうか。嬉しいよ。大沼に戻ってからの瑞樹は、積極的に東京に戻ることを考えてくれていて……きっと良くなるよ。だからしっかり療養するんだぞ」 「はい!」  宗吾さんに言われて、確かにそうだと思った。    これからもっと雪深くなる北の大地も、雪が解ければまた元の緑の草原になっていく。  僕の生まれ育った土地だから、何度も何度も繰り返し見た光景だ。だから自信を持てた。  僕の指も……きっと治る。  そういう予感で満ちていた。  赤ん坊が日に日に成長するように、僕の細胞もきっと生まれ変わっていく。  

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