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幸せを呼ぶ 1

 九州・大分 「カズくん、いってらっしゃい」 「ありがとう。留守中、宿のことをしっかり頼むよ」 「えぇ、お義母さまもいらっしゃるし大丈夫よ。それより会議、頑張ってね」 「あぁ」  大分に帰郷してから、二度目の上京になるのか。  全国旅館組合の青年部の年に一度の定期総会に参加するため、俺は久しぶりに東京に行くことになった。湯布院温泉を代表してなので、プライベートの時間はないだろう。だから旧友と会うこともままならないだろう。  だが機内で久しぶりに一人の時間を持てると、ふと……気がかりだったことを思い出した。  それは瑞樹と暮らした家のことだ。  卒業と同時に大学の寮を出ることになって、二人で頑張って賃料の安い所を探したんだよな。  あのマンションは駅から結構離れて急坂がある分、2LDKなのに破格だった。人気物件だったので急いで保証人を立てる必要があり、俺の単独名義で借りたんだよな。  瑞樹……まだあそこに住んでいるのか。それとも……  俺のサインなしで、ちゃんと解約できたか。もうきっとあそこには住んでいないと思いながらも、借主としての責任も果たさず、瑞樹に当面の家賃だけを置いて去ったことが、男らしくなかったと後悔している。  かといって……今更……瑞樹に連絡してどうする?  でも解約が上手く出来ず、瑞樹が困っているかもしれない。もしそうならば、手を貸すべきじゃないか。  そんな胸騒ぎがして……結局、仕事の後やって来てしまった。もしかしたら瑞樹に会えるかもしれない。この時間なら帰っているかもしれない。そんなおかしな淡い期待迄も、図々しく抱いてしまっていた。  いざ来たものの、ポストの表札を見るまで緊張が止まらなかった。だから部屋番号の横に『Hayama』と瑞樹の肉筆で上書きされたシールを見た時、妙にホッとした。  ふぅ……瑞樹、まだ住んでくれていたのか。まだここにいるんだな。  そのまま階段を一気に上がった。  一歩一歩が重たいのか軽いのか分からない。ふわふわした状態だ。  もうスッパリと別れた相手だ。そうすると心に決めた相手だ。だから大学時代の友人、同居人として会うだけだ。そう自分に必死に言い聞かせるのに、心臓がドキドキしてしまうよ。  瑞樹は男のくせに……いつも花のような香りを纏った可憐な人だった。  北国育ちの極め細やかな肌は……抱くとうっすら汗ばんでしっとりと真珠のように艶めいた。月明りのような白い肌を吸い、俺の痕を残し、愛しんだ日々が懐かしい。  もう遠い昔のように感じるよ。もう二度と触れられないのはちゃんと理解している。父が亡くなり息子が生まれ、旅館の跡目を継いだ時に心にきつく誓った。  だが……いざ玄関の前に立つと、足まで震えてしまう始末だ。    やはり表札は『Hayama』のままだ。俺がお前を残して去ったせいだな。  瑞樹の文字で上書きされた表札に涙が込み上げてくる。これ……あいつ、どんな想いで差し替えたのか。  だが震える手でインターホンを押せども、返事はなかった。まだ帰っていないのか。何度かトライしたが、なしのつぶてだった。諦めてとぼとぼと階段を下りると、ちょうど人が上がって来て、ぶつかりそうになった。 「あっ、ちょうどよかった。302号室の人じゃないか」 「あっ大家さんですか」 「ちょうどよかったよ。これ頼まれた書類ね」  手渡されたのは、俺たちの住んでいた部屋の解約通知書(退去届)だった。 「昨日電話で、出来たら今月末で退去したいと言われたけど、急過ぎるよ。解約の連絡の期限は1ヵ月前が一般的なんだよ。悪いが4月末までの家賃は払ってもらえるかな」 「今月末で? 」  もう数日しかないじゃないか。 「あっ、それ俺が払います」 「そう? じゃあ悪いがいいかな」 「はい。すぐにコンビニでおろして届けますので」 「話が早いね。じゃあこの書類も書いて一緒に提出してもらえるかな」 「わかりました。あの……相方が電話したと思うのですが、理由はなんと? 」 「ん? あぁなんでも急にどこかへ引越すことになったと言ってたよ」 「……それ、どこに行くか言っていましたか」 「いんや。おいおい君も同意の話だろう?」 「あっはい、ですよね」  あまり聞くのはまずいな。契約人の俺が一年近く住んでいなかったのがバレたら厄介か。  コンビニで預金を下ろし、カウンターで解約書類を記入した。たまたま会議で必要なので印鑑を持っていてよかった。  それにしても、瑞樹……行く宛が見つかったのか。よかったな。もしかして……幸せになれる相手が見つかったのか、そうなのか。  聞いてみたいような、聞きたくないような心境だ。  とうとうこのマンションの契約をもって、すべての縁が切れるんだな。そう思うと図々しいにも程があるが、寂寥とした気持ちにもなってしまった。  せめてあと1か月。最後に君を抱いた日まで、ここに住んでいてほしいなんて身勝手願いだよな。俺が捨てた癖にさ。  そう思うくせに、退室予定日にその日を指定してしまった。  俺……自分勝手で最悪だ。くそっ── **** 「すみません。毛布を一枚お願いします」  飛行機が離陸しシートベルトサインが消える間に、瑞樹はすっと眠りに落ちてしまった。 「瑞樹……やっぱり疲れていたな」  無理もない。二か月間不慣れなペンションで大活躍し、今日は大沼から函館市内、そして空港まで結構移動したもんな。いやそれを言ったら東京から日帰りする俺の方がもっとタフなんだが。まぁ俺は例外か。    それよりも俺の前でリラックスして眠りに落ちてくれたことが嬉しいよ。以前の瑞樹だったら、まだどこか緊張していた。  今の俺は……瑞樹にとって、心許せる存在になっているのか。 「お客様どうぞ」 「ありがとう」  窓際に座る瑞樹はこっくりこっくりと時々窓に頭をぶつけてしまっていた。  おいおい、こっちにもたれろよ。俺がいるだろう!  3人掛けの席で、俺の左隣は若い女性だったので、軽く会釈して毛布を受け取って瑞樹の胸元までしっかりかけてやった。  そして俺の方にもたれさせ、毛布の中にこっそりと手を忍ばせた。  あたたかいな。もうあの痛々しい白い包帯は巻いていない。元の瑞樹の指先に戻っていることを味わい、ほっそりとした指先を包み込むようにしっかりと繋いだ。  繋がっている。  俺と瑞樹は、今……目指す所が同じだ。    「まもなく当機は着陸態勢に入ります。お使いのお座席のリクライニングを戻し、シートベルトを……」    機内アナウンスだ。 「瑞樹……まもなく到着だぞ」  耳元で囁いてやると、瑞樹もすぐに覚醒した。 「あっ……僕、寝ちゃっていました?」 「疲れていたんだな。気にするな」 「もうすぐ着くんですね」 「あぁ……同じ地点を目指して、ふたりで……着地するところだ」      

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