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さくら色の故郷 9

「重くないか」 「大丈夫ですよ、僕だって男ですから」  そう言いつつ……彼の額は少し汗ばんでいた。 「おっ桜がついているぞ。何だか風流だな」  ひらひらと風に舞った桜の花びらが、瑞樹の額にぴたりとくっついたので、手を伸ばして取ってやった。 「あっすみません」  ほんの些細な触れ合いにも、ビクッと過敏に反応するのが可愛いよ。さっきもテーブルの下で手を重ねてみたら最高に心地良かった。瑞樹も同じ気持ちだったようで、顔を赤くして狼狽していた。  あーだが……この旅行は家族旅行だから、あれ以上の触れ合いは無理だ。  そのために昨日散々抱き合ったのだろう。  だから宗吾、耐えろよ。ひたすら忍耐……忍耐あるのみだ! 「あれ? 芽生は寝ちゃったみたいだな」 「えっそうでしたか。さっきから静かだと思ったら」 「あぁよく眠っているぞ。それじゃ余計に重いだろう。ほらっ代わるぞ」 「大丈夫ですよ。下手に移動させて起こしちゃうのも可哀想ですし」  確かに芽生はとても安心した顔で眠っていた。瑞樹のシャツを掴んでいた手も緩み次第に脱力して、もうぐっすりだな。少し開いたあどけない口元が、幼さを滲ませていた。  いつも少しマセたことを言う頼もしい芽生だが、まだまだ5歳の子供の小さな子供なんだよな。 「そうか、悪いな」 「宗吾さん……こうやっておんぶしていると、芽生くんはまだ小さな子供だなって、改めて気づかされますよね」 「今、俺も同じことを考えていたよ」 「くすっ、また以心伝心ですね」  瑞樹はそれが幸せだと朗らかに笑い、それから少し改まった顔つきになった。 「宗吾さん、少し芽生くんの話をしても?」 「あぁ」 「僕が芽生くんと同じ5歳の時は、ちょうど弟が生まれたばかりで幸せな時期でした。両親もふたり揃っていて……」 「そうだったな」 「芽生くんはまだ幼いです。正直な話……お母さんが恋しくなる時がこれからも沢山あると思います。あの、そういう時……僕は大丈夫ですから」 「どういう意味だ?」 「おこがましい言い方になりますが、今後……前の奥さんと芽生くんのことで会ったりする事もあると思います。そんな時……僕に変な遠慮はしないで欲しいです」  瑞樹の方から突然切り出された玲子の話題に、少々驚いた。でもそこまで彼が芽生に対して真剣に向き合ってくれている証だと思った。俺も逃げてばかりいてはダメだな。 「……そうか」 「これからは芽生くんの気持ちに自然に寄り添っていきたいと」 「そうだな。確かに、俺たちが勝手に縛りを作ることはないんだよな」 「……はい」  瑞樹と話しているうちに、やはり玲子と芽生の今後について一度話すべきだと思った。  あれは突然切り出された離婚だった。正直幼い芽生を置いて去っていった玲子に恨みしか感じなかった時期がある。瑞樹のことが絡んで彼女と揉めそうになったこともある。その後、俺と瑞樹のことを少しは理解してくれたようだし、玲子には美容師の恋人も出来ていた。状況は少しずつ変わってきているのだから、俺も臨機応変に対応しないとな。 「やはり一度、アイツの芽生に対する今後の気持ちも聞かないとな」 「えぇ……たぶん、それがいいかと」 「……瑞樹はそれでいいのか。正直な気持ちを君も話せよ」  どうしても気になってしまう。  君が無理して笑っていないか。  それが心配で── 「えっそれは……もちろん気にはなりますが……でもちゃんと会うことで、きちんと気持ちを整理できるのなら、そうして欲しいです。僕が偉そうに言える立場ではないですが」 「ありがとう……なぁ、俺からも一つ聞いていいか」 「僕にですか」 「……瑞樹の方は……まだ行かなくていいのか」  俺が君に最初に提案したことを覚えているか。原っぱに埋もれるように孤独に泣きじゃくっていた君を励ました、あの言葉を。 『僕には……もう誰もいないからっ』 『果たしてそうかな。そうだ、外国には『幸せに暮らすことが最大の復讐である』という諺があるのを知っているか』 『……幸せな復讐?』 『そう。そんな復讐なら、してもいいと思わない? 』  キョトンとした瑞樹の顔を真剣に見つめて、今一度問う。 「つまり……まだ『幸せな復讐』をしに行かないのか」 「あっそれは……」  彼はハッとした表情を浮かべ、そのまま暫く考え込んでしまった。 「今年は……まだ行きません。僕は宗吾さんと暮し始めたことだけで正直もう胸が一杯なんです。なので暫くはこのままがいいです。その……それじゃ駄目ですか」 「そうか。ならいいが……いつでも行きたくなったら言ってくれよ」 「はい。今の僕はそれより宗吾さんと芽生くんと過ごす時間を、まず増やしたくて」 「俺の方もしっかりするよ。君を不安にさせないように」 「ありがとうございます。僕は宗吾さんを信じています」 「ありがとう。心強いし、嬉しいよ」  お互いに……今まで、なかなか話しづらかった部分に触れることが出来た。  そうだな、瑞樹の言う通りだ。  あれもこれも一度に焦ってやることはない。  俺たち……一歩一歩、歩んでいこう。  今日は……また一歩踏み込めた。  夜桜が秘めやかに語り掛けてくるような静かな夜だったから……共に心を開けたのかもな。 ********  家に着いても芽生くんは起きる気配がなかった。  なので僕の背中の芽生くんを布団に寝かせ、そのまま朝まで寝かすことになった。 「おしっ、ここに敷いたから静かに降ろせよ」 「わかった」  その頃には宗吾さんと広樹兄さんの酔いもだいぶ冷めたようで、バタバタと寝床の準備に活躍してくれた。 「ふふ、よく眠っているわね。芽生くんのお風呂は明日でいいわね。でも、うーん……困ったわ。御覧の通り狭い我が家だから、お風呂もかなり狭いのよね。沸くのにも時間がかかるし」  お母さんが腕組みして、ブツブツ考えている。 「やっぱり悪いけど、男性は銭湯に行ってもらえるかしら」 「えっ」 「瑞樹も大丈夫よね? 兄さんと恋人が一緒なら怖くないでしょ」 「お母さんっ」  銭湯!そう来るのか。  呆然としていると、広樹兄さんに背中を叩かれた。 「はははっそうくると思ったぜ。ほらほら、ぼーっとしてないで行くぞ。母さんそうするよ」 「広樹、瑞樹をよろしくね」  広樹兄さんが慣れた手つきで僕たちの風呂道具をセットしてくれ、家から歩いて5分の小さな銭湯に行くことが、あっという間に決まってしまった。  こういう時のお母さんの決断は揺るがない。  いや別に嫌じゃないよ。  だって……僕たちは男同士だ。  でもでもでも……僕の頭の中は混乱していた。  まずい、まずいんじゃないか……  やっぱり……かなりまずい。  だって、宗吾さんにつけられた胸元のアレ……あんな場所をどうやって隠せばいいのか分からないよ。  想定外だった! まさか今日銭湯に行くことになるなんて、僕も詰めが甘い。 「瑞樹、さっきから百面相してんな。どーした? 何か困ったことでも?」  やはりまだほろ酔いなのか、宗吾さんが呑気に聞いてくるから、じどっと見つめてしまった! 「……大ありですっ!」

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