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紫陽花の咲く道 7
宗吾さんと仕事中に信号で偶然逢えた日から、数日経っていた。
家では何となく照れ臭くて、指輪の話題に触れられないでいた。
もどかしいような、じれったいような……それでいてワクワクするような不思議な心地が、あの日からずっと続いている。
相変わらず僕は幸せ過ぎる事に不慣れで……一度に沢山の幸せがやってくると逆に不安になってしまう。こうやって同じ家で暮らせるだけでも、身に余る幸せだから。
仕事が終われば真っすぐに宗吾さんと芽生くんの待つ家に帰り「ただいま」と言う。それから共に夕食の準備をし、芽生くんとお風呂に入り、三人で川の字となり眠る。
穏やかな眠りが続き朝が来れば「オ・ハ・ヨ・ウ」のキスで目覚める。
宗吾さんが朝食、僕が掃除と手際よく分担し、その後三人で玄関の鍵を閉めて出かける。
芽生くんをバス停まで送り、宗吾さんと一緒に電車に乗り込む。
電車は相変わらず満員電車だが、僕たちとっては出勤前の秘めやかな触れ合いの場所と時間だった。
彼とは何度も肌を合わせたのに、車中で肩や手がぶつかったり触れたりすると……そんな些細な触れ合いにすら、未だに心を跳ねさせていた。
宗吾さんも同じだ。
僕たちは互いに、見つめ合えばドキドキし、トキメキ合っている。
心が躍る。
心が弾む。
心って、こんなに自由なのか。
軽やかに跳ねるのか。
本当に知らなかった。
宗吾さん、あなたと会うまでは──
「じゃあな、今日も頑張ろう」
「はい。お互いに!」
そんな言葉で僕たちは改札で左右の道に別れるのが、日課になっていた。
職場では仕事に没頭した。私生活が充実すればする程、仕事も捗り、冴えていた。
「おお、葉山、今日もいい出来だな」
「リーダーありがとうございます!」
「それは銀座の『月虹』の分か」
「はい。今から届けに行ってきますね」
「了解。おっと……もうこんな時間か。今日は特別にそのまま直帰していいぞ」
「よろしいのですか。ありがとうございます」
時計を見ると、まだ16時半過ぎ。
いつも退社は18時過ぎになってしまうので、こんな時間に直帰してもいいとは驚いた。
僕は大きな花を抱えて、バーの入り口に飾る小ぶりのアレンジメントを届けに行く。
最近いつも芽生くんを抱っこしているせいか、妙に花が軽く感じるよ。
今日も梅雨空で、朝からしとしとと雨が降っていたが、僕の足取りはどこまでも軽かった。
銀座四丁目の裏通りにある『The BAR 月虹』
小さなビルの7階にある、小さな店。ここは最近僕のアレンジメントを指名してくれるので、すっかり顔馴染みになっていた。
「瑞樹くん~いらっしゃい。待っていたわよ」
「お待たせしました。今日のアレンジメントです」
「まぁ素敵よ。今回も季節感あっていいわね」
「ありがとうございます。ここで最終的な調整をさせて下さい」
今日は淡い紫色の紫陽花にクレマチスを合わせたクールモダンテイストにしてみた。花器には、瑠璃色(藍青色)の硝子を選び、神秘的な内装のBarに沿うよう幻想的な雰囲気に仕上げようと思う。
紫陽花を手に、鋏を軽やかに動かしていく。
梅雨は何となく人の心をモヤモヤとさせてしまうが、僕は割と好きだ。
梅雨を象徴する紫陽花は、雨が似合う美しい花だし、しとしとと降る雨にはどこか心地よいリズムを感じ、不思議と心が落ち着いてくる。そんなヒーリング的な僕なりの想いも花に込めてみた。
「いいわねぇ……瑞樹くんが生み出す世界って、何だか妙に落ち着くのよね。今日のアレンジメントも、雨だれのような音楽が聴こえてくるわ」
バーのママさんは、うっとりした面持ちになっていた。
「ありがとうございます。これからも頑張ります。これで完成です」
「あら、今日はもう上がりなの?」
「はい」
僕が帰り支度をしている事に、気がついたらしい。
「じゃあカクテルをご馳走してあげるわ」
「えっ、でも」
「いつも断ってばかりじゃ、疲れるわよ」
「うっ……では一杯だけ。あまり遅くなれないので」
「分かっているわ。大事な彼女さんがお家で待っているのでしょう」
「……」
出勤したバーテンダーさんが、仕事前の腕試しも兼ねてカクテルを一杯作って、差し出してくれた。
「『ブルームーン』です」
「淡い紫色が紫陽花のようですね。あ、スミレの花の甘い香りがします」
「ジンとバイオレットリキュール、フレッシュレモンジュースを使った紫陽花色のカクテルですよ。フランスのバイオレットリキュールを使用しているのですが、これはフランス語では『完全なる愛』という意味なんです。でも、『ブルームーン』というカクテル名には『できない相談』という意味があるので、あなたに言い寄って来るしつこい誘いを断る時にでも、お使いください」
カクテルを、むせそうになってしまった。
「はぁ?」
「はははっ、あなたは男女問わずモテそうなので、つい」
「えっいや……そんな」
「その通りだわ。瑞樹くんは老若男女にモテそうよね」
「そっそうでしょうか」
「特に男性には要注意よ! なんだか瑞樹くんみたいな人って、同性からも言い寄られそうね」
「はぁ……」
まさかその男性と付き合っているとは言えなくて……愛想笑いをするしかなかった。
****
たった一杯のカクテルでも、僕には十分効果があった。
普段ならひとりで銀座の街をぶらぶらと……あてもなく歩かない。
函館や大沼という地方で育った僕は、大都会の喧騒に気後れしてしまうのだ。だからいつもなら人混みが苦手なので、さっさと駅まで突っ切ってしまうのに、今日の僕は少しだけ大胆になっていた。
珍しく職場に戻らず直帰できるのが後押ししているのか、とても気分がいい。
「あっここって……」
路地裏から大通りに出ると、ちょうど交差点に、先日宗吾さんと立ち止まった老舗宝飾店が見えた。
ここで……あの日、指輪の話になったのだ。
宗吾さんが僕に指輪を贈りたいと言ってくれた場所だ。
僕たちは男同士だから……
宗吾さんが僕に贈ってくれるのなら、僕からも宗吾さんに贈りたい。
これって変なのかな。
(僕も……宗吾さんに贈っていいですか)
あの時言えなかった言葉は、やっぱりちゃんと伝えようかな。
自然に、息を吐くように……自然に言えばいい。
それにしても……こんな高級店で扱う指輪って、一体いくら位するのか。
値段の事が気になる……少しだけ下調べしてみようかな。結婚指輪なんて縁がないと思っていたので、どんな種類があるのか見当もつかないよ。
よしっ! 思い切って入ってみよう。
僕に勇気を──
酒の力を借りて、クラシカルな店舗の重厚な扉を力を込めて押してみた。
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